『三四郎』:私の好きな作品です。しかしプロットはありません。三四郎が大学に入学するため九州から上京し、里見美禰子と出会って惚れ、相思相愛のようになるが、美禰子は突然他の男と結婚する。主人公は三四郎ですが、彼はいつも受け身で自分の意見を表明することはあまりなく、漱石の言う「無意識の偽善者(Unconscious Hypocrite)」である美禰子の方が影の主人公だと言えるでしょう。プロットはともかく私が好きなのはこの小説の世界観とでもいいましょうか、物語全体を支配する詩的で幻想的な雰囲気です。「迷える子(Stray Sheep)」「ハイドリオタフヒア(Urn Burial or Hydriotaphia)」などの語句を反復することによって読者を物語の中に引きずり込みます。そしてところどころに配置されたユーモアが秀逸。私が声を出して笑ってしまうのはこの作品ぐらいです。さらに広田先生、与次郎など魅力的な登場人物を読者は忘れることはできないでしょう。文庫のあとがきで柄谷行人が「漱石がいわば小説らしい作品を書きはじめるのは、『三四郎』の次の作品、『それから』や『門』からだといってよい」と述べてますが、頭の悪い私には何のことか意味がわかりません。『三四郎』は立派に小説として成り立っていると私は思います。
『それから』:この作品について漱石は「大学を卒業した三四郎のそれからである」ということをタイトルの意味の一つとして挙げています。しかし本書を読み進めていくと三四郎よりは里見美禰子のそれから、と解したほうがしっくりくることがわかります。
主人公の長井代助は大学を卒業した後、資産家の親から金をもらい、定職につかず結婚もせずブラブラ遊んでいる(漱石はこのような人間に対して高等遊民という造語をあてていますが、漱石の作品には高等遊民があまりにも多く出てきます)。そして真面目に働いている友達をバカにして、自分が働かないことに屁理屈をこねて得意になっている……誰がこんなふざけた主人公に感情移入できるでしょうか?ただただ漱石の作品だ、というだけで意地になって読み通しました。最後主人公は自分が蒔いた種によって悲惨な末路をたどりますが、だからすっきりするわけでもなく、全編を通して不愉快な念を払拭できませんでした。
ちなみに私は初めて読むものと思ってこの小説を手に取りましたが、読み進めていくと過去の私が何か書き込みをしていました。おそらく高校生の時に読んだのでしょうが、何を書いているのかわかりません。とにかく読む年齢によって作品の受け取り方はかわってくるので、やはり若いときに一冊でも多くの本を読むべきだったと後悔しています。
『彼岸過迄』:漱石によると「『彼岸過迄』というのは元日からはじめて、彼岸過迄書く予定だから単にそう名づけたまでに過ぎない実は虚しい標題である」だそうです。したがってタイトルと本編は何のつながりもありません。
そして本編も読者を混乱させる内容になっています。冒頭から大学を卒業した敬太郎が平凡な生活を嫌いながらも生活のため就職活動を行います(物語は敬太郎の三人称一視点で進む)。その一環で友人の須永の紹介で彼の叔父の田口に職の斡旋を頼むが、そのとき田口からなぜか一人の男の尾行を頼まれる。しかしその男は田口の義理の弟で、須永の叔父であり、尾行自体が田口の悪戯であることがわかった。この結果敬太郎は田口家に出入りを許され、書生のような仕事を始めるが、後半物語が突然須永の一人称になり、須永と従姉妹の千代子の恋愛物語になる。これだけ人称が変化し、物語が突然変異をするとページがなかなか前に進みませんでした。私は意地だけで読破しましたが。
ここに挙げている六作品はすべて朝日新聞の連載小説であり、私にすれば漱石が行き当たりばったりに話を書き進めているようにしか思えません。また物語の中で漱石がプロットを組み立てようと意図している部分がありますが、それも後でほったらかしにされます。漱石の熱狂的なファンでなければ、この作品には手を出さないほうがいいでしょう。
『行人』:漱石の作品の中で私はこれが一番好きです。物語は二郎の一人称で進んでいきますが、主人公はその兄の一郎です。一郎は学問しか寄る辺のない理知的な人間。妻の不貞を疑うところからはじまって、次第に奇行が目立つようになり、妹を使ってテレパシーの実験を行ったりします。二郎や両親が心配して話し合いをした結果、一郎の友人のHさんに旅行に連れて行ってもらおうということになり、Hさんと一郎は旅行に出ます。そしてHさんからの手紙がラストに叙述されますが、手紙の中には一郎の不可解な言動・様子が克明に記載されていました。
手紙の中で一郎は家族との不和に関して、自分が周囲にあわせるのではなく周囲が自分のもつ精神の高みまで登ってくるべきだ、と理不尽なことをHさんに言います。そしてそういう自分を誰も理解できないことに非常な苛立ちを募らせます。一郎は思考だけが先走り、自分の行動が目的(end)にも方便(means)にもならないと悩みます。このように思考・雑念に振り回される苦しみは私には痛いほどよくわかります。自分が漱石のような聡明な頭脳をもっているとは露ほども思いませんが、私も雑念に苦しんでいるので一郎の苦悩を我がことのように感じることができるのです。私は文明が進んで生活が便利になるにつれて、人間に余計なことを考える時間が生まれることが、このような悲劇を生む原因になっているのだと思います。果たして物質的な豊かさが私たちにとっていいことなのか、と考えさせられる一冊でした。考えることの苦しみを感じる人には是非読んでいただきたいです。
『こころ』:一般的な評価が非常に高い作品ですが、構成上大きな問題があります。この小説は「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の三章立てになっていますが、私から見れば「先生と私」「両親と私」はほとんど意味がありません。遺書を誰かに送る必要があったため、私という登場人物を作ったのでしょうが、それなら「両親と私」など必要がないのです。また登場人物に名前がついていない。私、先生、父、母、妻……等々わかりにくいことこの上ありません。しかし「先生と遺書」は一読の価値があります。私が思うに、漱石の作品は全体よりも部分で捉えて評価されるべきものなのでしょう。部分で評価すべきということは彼の作品全般に言えることだと思います。
この作品で私が注目したのは先生の周囲の人たちへの働きかけです。先生は下宿での奥さん、お嬢さん、Kとの生活の中で三人に対して邪推ばかり働かせて、対話を通してほとんど彼らの真意を知ろうとしません。そして三人に対して妄想に妄想を重ねて、ついにKを自殺に追い込むような事態を引き起こしてしまいます。私から見ると先生は完全にパラノイアであり、心を病んでいます。この時期孤独に苦しんだ漱石の精神状態をそのまま投影しているように思えます。
また先生に裏切られたと知って自殺したKの心境も、読者の心を深く揺さぶります。実家からは離縁され、この世でただ一人頼りにしていた友人に裏切られたKの寂寞な思い、寂しさは現代に生きる私たちにもよくわかります。人間関係の希薄な現代人にこそ胸に響くのではないでしょうか。
そして先生もまた罪の意識に苛まれながら、死んだつもりで生きていこうと決心しますが、明治天皇の崩御の後、乃木希典が天皇に殉死したことを知って、自らも自殺の決意を固めます。先生は「明治の精神に殉死する」と言っていますが、当然私たちには何のことかわかりません。漱石はその理解できない理由を「時勢の推移から来る人間の相違だからしかたがありません」と述べています。明治元年の前の年に生まれ、明治が終わった四年後に死んだ漱石はまさに明治の中で生きてきたわけであり、明治という時代に対しては当然特別な思いがあったことは間違いありません。漱石自身も明治天皇の崩御に一つの時代が終わったとの感を強く持ったのでしょう。
【最後に】
六冊を通して読んだ後、全体を俯瞰しての感想はプロットが何にもないということでした。加えて文章表現の巧みなことを考慮すると、一見漱石の作品は純文学に分類されるような感がします。しかし文学はおもしろくないが、漱石はおもしろい。それは作品の中に漱石独自の思想・人生観・心理描写などが盛り込まれているからです。したがって彼の作品は文学でもエンターテイメントでもなく「夏目漱石」という一つの分野として語られるべきだと私は思います。