まず年表で主な出来事を確認してみます。中華人民共和国の歴史は、建国から文革終了まで実に波乱に富んでいます。
※青字は国際関係、赤字は国内の出来事を指します。
1949年10月 中華人民共和国成立
1950年 6月 朝鮮戦争勃発、同年10月中国人民義勇軍が参戦
1956年 2月 フルシチョフがスターリン批判を行い、米との平和共存路線を表明する。これはアメリカとの武装闘争を核心とする中国の立場とは相容れないものであり、かつスターリンの個人批判は毛沢東の絶対化の批判に通ずるものがあるため、中ソ対立が表面化していく。
1958年 大躍進運動(〜62年)
1959年 中印国境紛争、ソ連がインドを支援したため、中ソ対立は抜き差しならないものとなる。
1964年 中国が原爆実験に成功
1965年 アメリカ軍がベトナム戦争に介入、北爆が中国に脅威を与える。
1966年 プロレタリア文化大革命(〜76年)
1969年 中ソ国境地帯のダマンスキー島で大規模な武力衝突
1972年2月 ニクソン米大統領訪中
1972年9月 田中角栄首相訪中、日中国交正常化
【大躍進運動】
1958年毛沢東は「工、農、商、学、兵」をひとまとめにした新たな社会の基本単位である〈人民公社〉を創設し、集団化を推し進めます。そして人民公社を基盤に、「早く、立派に」社会主義を建設する総路線を打ち出し、製鉄を中心とした重工業の飛躍を目指しました。しかし人海戦術頼みの時代遅れな生産方法をもって、性急な大躍進政策を推進したため、工場労働者の疲弊と機械の消耗、農民の生産意欲の低下を招いてしまいます。さらに1959年から3年連続の自然災害と凶作に見舞われ、農村で大量の餓死者を出し、大躍進運動は大失敗に終わります(その犠牲者は数千万人と言われ、文革の犠牲者と合わせて7000万人という途方もない数の人々が命を落としたことになります)。
毛沢東にかわって1959年に劉少奇が国家主席となり、61年から重工業のテンポを落とし、農業と軽工業生産の回復、農民の私有地を増やす調整政策が進められました。
【1962〜65年、中間期】
1962年に毛沢東は「大躍進政策の失敗は社会主義建設において経験が不足していた」と自己批判を行います。
しかし1963年からの中ソ論争において、毛沢東は「ソ連は盟友の中国社会主義を裏切り、アメリカ帝国主義に屈服する修正主義者(資本主義への漸進的な移行)によって、指導権を奪われた」と考えました。これにより彼は社会主義体制のもとで、平和的な資本主義復活がなし崩し的に進行していると考えるようになります。ゴリゴリの共産主義者である毛沢東にはそれが許し難く、劉少奇・ケ小平ら経済を立て直すため、資本主義を取り入れた調整政策を行う党中央の批判を開始します。
毛沢東は国家主席の座を降りましたが、まだまだ建国の父として党内に絶大な影響力を持っていました。私が思うに、権力欲の塊である彼はただ単に自分がトップにいないことが不満だったんだと思います。したがって当たり前の経済建て直しを行っている劉少奇やケ小平に難癖をつけたのでしょう。中国のトップがどれほどの強大な権力をもつのかは、私たち日本人には想像もつかないほどなのです。そして彼は奪権闘争を開始します。
【文化大革命】
1966年5月16日党中央委員会が「五・一六通知」を通達したことで、文化大革命の定義がなされ、文革の発端となります。「五・一六通知」では《 @反党反社会主義のいわゆる学術権威のブルジョア的反動的立場を徹底的に暴露し、A学術界、教育界、新聞界、文芸界、出版界のブルジョア反動思想を徹底的に批判し、これらの文化領域における指導権を奪取する 》よう呼びかけます。また8月に第8期11中全会(中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議)での「十六カ条」には、多くの矛盾や欠陥がありましたが、「大衆の自己解放」という理念が大きな魅力となって若者たちを惹きつけます。
こうして若者たちが文革に大いに魅了された結果、紅衛兵が出現しました。彼らは「造反有理」(謀反にこそ正しい道理がある)、「革命無罪」を合言葉に、ブルジョア思想家とみなされた人たちを、徹底的に弾圧・迫害します。親が子を、子を親が密告する恐ろしい事態の中で、多くの知識人・文化人が処刑されました。冒頭に記した約3000万人という犠牲者の多くが紅衛兵によるものだと考えられています。
「十六カ条」により、それまでの党の束縛から解放され、しかも支配する側を反動路線と批判する自由を与えられた大衆は、やりたいようにやる無政府主義に走っていきます。もう彼らを止められるのは軍をおいて他にありませんでした。
また紅衛兵は大学生・高校生が主翼を担っていたため、彼らが学業を無視して革命運動に身を投じた結果、中国の教育についても数十年の遅れが出たと言われています。
当初は紅衛兵運動を積極的に支持していた毛沢東も、彼らが無政府主義的に破壊行為を行うのを見かねて、68年末「下放運動」(知識青年は農村に行き、農民から教育を受けることが必要である)を呼びかけて、紅衛兵運動は一応の終着を迎えます。
またその一方で、文革を指導者の側からみれば、2人のキーパーソンがいます。林彪と江青(毛沢東夫人)です。
まず林彪ですが、彼は人民解放軍における自己の地位を着々と固めていき、軍における影響力が毛沢東に評価され、66年8月には党ナンバー2の党副主席に抜擢され、毛沢東の後継者の地位を不動のものにしました。文革初期において、彼は毛沢東の忠実なしもべとして、実権派からの権力奪取に大いに貢献します。さらに70年には「毛沢東天才論」という演説をするなど、毛沢東に媚びへつらい、約束された後継者の地位のさらに不動のものとしていきます。
しかし林彪が国家主席という地位を設立して、毛沢東がその座につくべきだ、と提唱したところ、林彪の意図が毛沢東亡きあと、自分が国家主席に就任しようと陰謀を企んでいると悟った毛沢東は、林彪を警戒しはじめます。毛沢東の信頼を失ったことに気付いた林彪は、クーデターを起こして政権を奪取しようと目論みます。しかしクーデターによる毛沢東暗殺を悟られた結果、林彪はソ連に亡命するため、飛行機に乗りこみ、強行離陸します(強行離陸というのは、林彪の娘が親の亡命を周恩来に密告したため、官憲が離陸を阻止しようとしたからです。事実飛行場に移動中、林彪の乗った車は銃撃され、ボディーガードが撃たれています)。そしてソ連へ向かう途中、モンゴル上空で林彪の乗った飛行機は謎の墜落をして、林彪は死去します(飛行機墜落については様々な説があります)。
もう一人のキーパーソンである江青ですが、この人の歴史的評価はひどいです。毛沢東夫人という立場を濫用して、実権派の迫害のみならず、自分が恨みを持っているというだけで、何の罪もない人たちを次々と捕まえて、実権派と称して処刑しています。中国史上の三大悪女として、漢代の呂后、唐代の則天武后、清代の西太后がいますが、江青はこの3人に匹敵するほどの悪女ではないでしょうか。文革終了後の裁判で、法廷に出された江青が裁判官に散々悪態をついていたシーンを私はテレビで見たことがありますが、毛沢東の威光を笠にきた不愉快な人間だ、と大変な嫌悪感を催したことを覚えています。
毛沢東が江青の政治参加・暴走を止められなかったのには理由があります。まだ抗日戦争を戦っていた時代、毛沢東と江青は結婚するのですが、そのとき毛沢東には賀子珍という3番目の妻がいました。したがって江青との結婚は不倫になるわけで、周恩来など共産党同士の反発を買い、江青を政治の表舞台には立たせない、という約束のもとにかろうじて結婚が認められたのでした。ところが文革開始時に、毛沢東は複数の女性と関係をもっており、江青とは事実上離婚状態にありました。毛沢東は江青をなだめるため、自分の妻として政治参加を認めざるをえなかったのです。
こういう経緯をみると、あらためて毛沢東は勝手な男だな、と思わざるをえませんね。彼の性欲を満たすために、文革でおびただしい数の犠牲者が出たわけで、この経緯を犠牲者が聞いたら、死んでも死にきれないだろうと思います。人間的エネルギーに満ち溢れ、人を惹きつけるカリスマがある反面、罪もない人たちの犠牲をもって自己の欲望を満たしているところは、麻原彰晃など新興宗教のペテン師たちと何ら変わるところがない、と私は思います。
ところで実権派として迫害を受けた無実の政治家・知識人・文化人は無数にいるわけですが、ここでは劉少奇とケ小平について触れてみます。
ケ小平は実権派と弾劾されて、2度も失脚しますが、不死鳥のようによみがえり、毛沢東死後、党の実権を握ります。ところが劉少奇の人生は悲惨を極めました。彼は大躍進運動のあと、自分の生まれ故郷の農村を訪れ、その悲惨な生活ぶりに驚愕します。したがって彼が大躍進運動の反省をして、経済の立て直しを行うのは至極当然なのですが、これが毛沢東の反発を買ってしまう。しかし劉少奇は毛沢東の忠実な下僕、イエスマンであったため、自己批判をして毛沢東の許しを得ます。しかし一度実権派のレッテルを貼られてしまったため、再び林彪や江青の攻撃を受け、失脚します。
失脚後、彼は自宅軟禁状態に置かれ、散髪、入浴ともに許されず、警備員はおろか、治療する医師からも執拗な暴行や暴言を受けました。劉の部屋には劉を非難するスローガンを記した紙が壁中に貼り付けられています。自分の党除名のラジオ放送を聞くことを強要された劉は、それ以後言葉を発しなくなります。過去の病歴のため劉はいくつかの薬を常用していましたが、それも取り上げられました。多くの歯は抜け落ち、食事や服を着るのにも非常に長い時間がかかったそうです。1968年夏に高熱を発した後はベッドに横たわる状態となったが、身のまわりの世話をする者はなく、衣服の取替えや排泄物の処理などもされない状態で、孤独な死を迎えました。
人間が集団で暴力を振るうようになると、ここまで残忍になれるのか、と背筋が凍る思いがします。
【批林批孔運動から文革の終焉まで】
1973年8月から四人組を中心として、批林批孔運動が始まります。批判の対象はすでに死んだ林彪と孔子(中華人民共和国では孔子は悪人とされます)というおかしな組み合わせですが、実は孔子という言葉の裏には周恩来への批判が隠されていました。
周恩来は大変な人格者として、国内外から尊敬を集めていました。ちなみに1917年から19年まで日本に留学した経験をもっています。1972年には田中角栄首相と日中国交正常化を果たしていますが、日本にも周恩来を慕い、尊敬する人は数多くいます。また『周恩来伝』を書いたジャーナリストのディック・ウィルソンは、周恩来をケネディやネルーと比較し、「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と最大級の賞賛をしています。
江青ら四人組の批判に対しても、周は毛沢東の信頼を失うことはなく、一度も失脚をしたことがありませんでした。
そして1976年1月周恩来はその生涯を閉じます。中国国民にとって周恩来は、毛沢東の厳父に対する慈父のような存在であり、また、すべてを理解し、すべてに細心の配慮をしてくれる母親のような存在でもありました。
周恩来の死に直面して、中国国民にはたと疑問が生じます。「批林批孔運動とは一体何なんだ?なぜ周恩来が批判されなければならないのか?」と。やがて文化大革命の正体に気付いた国民は、4月周恩来の死を悼むため、天安門広場に集まり、その遺徳をたたえ、文革派と毛沢東の専制に対する批判の声をあげますが、警察と軍に鎮圧されます。
しかしこれで文革への抵抗が終わったわけではありませんでした。
同年9月毛沢東が死去すると、首相に就任した華国鋒は、ただちに江青ら四人組を逮捕し、クーデターに成功、文化大革命は終結しました。
【文化大革命について一所感】
文化大革命は大衆を巻き込んだ大規模な権力闘争として、世界史に類を見ないものだと思います。あるいは見方を変えれば、歴代中国王朝の権力闘争を、社会主義体制になってまた繰り返したともとれます。歴代中国王朝の権力闘争は、宦官や王族の間に起こったものですが、毛沢東が身内である劉少奇や彭徳懐を陥れてまで、権力奪還に向かったことは、やはり過去の権力闘争と類似する部分があると思います(毛沢東、劉少奇、彭徳懐は同じ地方の出身)。
権力機構が一つのきれいなヒエラルキーを構成している中国と違って、民主主義国家である日本ではこのような事態はまず起こり得ないでしょう(私は今の日本の政治を民主主義というより衆愚政治と言ったほうがより適切に思えます)。首相になっても「バカだ、無能だ」と罵られる日本と違って、中国の指導者の権力は絶対です。誰かがトップになりたい、と野心を燃やしても不思議ではないほど、中国の党中央は絶大な権力を保持しているのです。
その絶対的権力に固執したのが毛沢東でした。文化大革命は超人的なエネルギーをもつ毛沢東という化け物にはじまり、終わったと言えます。しかし中国において露骨な毛沢東批判はなされません。今なお、天安門広場に彼の巨大な肖像画が飾られているほどです。いかにカリスマ的な指導者だったとはいえ、文革の加害者が、まだ英雄として祀られているのは、日本人である私には理解できないところです。
最後に、陳腐な言い方ですが、大躍進運動から数えるとおよそ7000万人の犠牲者が出たといわれる文化大革命を、私たちは歴史の反面教師として、忘れてはならないと思います。