2013年04月30日

『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一著 講談社現代新書

 この本は1996年発行なのですが、いまだに本屋に行くと新品が何冊か重ねておいてあるので、相当人気があるようです。ロジックや起承転結のない、まったりとした新書とは思えない本でした。筆者は哲学・倫理学を専攻しています。私は結論の出ないどっちつかずの話にイライラしながら読みましたが、こういう文章が好きな人がいるだろうな、とは思いました。

 本書は「わたしはだれ?」という問いかけを延々考え続けていきます(記憶喪失やアルツハイマーの話ではありません)。普通の人間がこんなことを何時間も考えたら頭がおかしくなるでしょう。しかし「自分」というアイデンンティティが衰弱した現代では、このような問いかけをする人が少なくないそうです。

 「わたしはだれ?」というある種切実な疑問に対する筆者の答えを先に記すと、わたしとは他者のなかにじぶんがある意味のある場所を占めているということ、たとえ憎しみの対象、目ざわりの対象でもいいから、他者の他者としてじぶんを確認できているということ、このことがひとが「だれ」であるかをさし示し、またその存在の支えもすること≠ニなり、自分を自己の内部に見出そうとするのではなく、他者との関連の中で見つめて初めて自分の存在意義がわかるということでした。自分と他人との違いを探してもなんの解決にもならないということです。
 筆者の見解を押し広げていうなら、時代が進むにつれて人間関係が希薄になってきており、他者との相互関係の中に存在する自分を見出せなくなった、ということでしょう。家に閉じこもってテレビゲームやパソコンと四六時中対面しているような生活を送っていれば、当然心が病んできて、「わたしはだれ?」という素っ頓狂な疑問に日々苛まれるのでしょう。私はこのブログで何度も申し上げておりますが、テレビゲームやインターネットは人間に害しか及ぼさないのです(ちなみに中国ではテレビゲームは禁止されている)。しつこいですが、最低子どもは外で友達と遊ぶような社会にしないと、我が国はお先真っ暗です。
 私は幸いにも友達に恵まれ、「わたしはだれ?」と考えることなどありませんが、自分がそうでないから、苦しんでいる人をほっておいていいということにはなりません。民主主義国家の責任ある有権者としてテレビゲームの廃絶を訴えていきたいと思います。

 ところで、私が思うに「わたしはだれ?」という問いかけは、筆者の見解とは全くかけ離れますが、「心とはなにか?」と問いかけるのと同じことです。タンパク質の集合体でしかない我々人間がなぜ生命となり、心をもつのか誠に不思議なことです。私はやはり本書のような形而上学的な話ではなく、生命科学に基づいたアプローチに期待を寄せます。以前NHKで『宇宙・未知なる大紀行』という番組をやっていましたが、その中である学者が「人間が宇宙について知りたがるのは、畢竟私たちは誰で、何のために存在するのか知りたいからじゃないのか」というような趣旨のことを言っていました。我々が学問をするのは、この学者が言うように「人間とは如何なる存在か」というテーマを、やはり意識のどこかにもっているからだと思います。このテーマが人間の好奇心のドライビング・フォースなのでしょう。
 しかし仮に「宇宙とはなにか?心とはなにか?」という命題に人類が到達したとしても、私は生きてはいないでしょう。先日ものの本で読んだのですが、この世で一番大きな物体は、おおいぬ座VY星という星らしいです。太陽系から約5000光年離れていて、直径が太陽の2000倍の30億キロメートルもあり、土星の公転軌道がすっぽりおさまってしまう巨大さです。一番小さなものはかの有名な素粒子。しかしおおいぬ座VY星・素粒子ともに人間が認識できる範囲で最大・最小のものです。もっと大きく、もっと小さなものはこの宇宙のどこかにあるでしょう。まだまだ宇宙や生命の神秘を解明するのは先のことです。

 まったく話は変わりますが、本書の中で筆者はわたしにはヘンなくせがある≠ニ前置きしたうえで次のようなクセを述べています。
タイルを整然と敷き詰めた舗道を歩くと、まるで磁石が働いているかのように、脚の先がその継ぎ目のところに引き寄せられるのだ。いつも、ではない。ときに、ふと憑かれたように、爪先がタイルの継ぎ目をめがける……
 こんなおかしなクセ、というか習性というのは誰もがもっているのではないでしょうか。私もクセではないですが、小学生の頃まで鏡を見ていると自分が誰だかわからなくなるということがよくありました。とても恐ろしい経験でした。脚元が崩れて奈落の底へ落ちていくような感じがしました。だから私は鏡が嫌いです。
 こんな経験をしたのは私ぐらいだろうと思っていたら、学生時代に自動車教習所に通っていた時、適性検査で「鏡を見ていると自分が誰だかわからなくなる」という項目があったので大変驚きました。ネットで調べると、この現象を〈ゲシュタルト崩壊〉と呼ぶそうです。しかしゲシュタルト崩壊とは全体性を持ったまとまりのある構造から全体性が失われ、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう(Wikipediaより)≠ニ定義され、本来は図形や文字などが認識できなくなる現象で、「鏡を見ていると自分が誰だかわからなくなる」とは本を読んでも書いてありません。おそらくネットでおもしろ半分に誰かが命名したのではないでしょうか。ただ教習所の適性検査に出てくるぐらいですから、心理学でなんらかの研究がなされているものと思われます。
 また私は20歳くらいまでは、人の目を見て話をすることができませんでした。人の目を見ると背筋に虫酸が走るのです(黒板を爪でひっかいたときに出るあの不快な音を聞いたときと同じように)。小学5年生のとき、悪さをして担任の女教師にマンツーマンで説教されたことがありましたが、教師に自分の目を見るよう強要され、顔を両手で固定されて目をのぞきこまれたため、あまりの恐怖に暴れて、教師と取っ組み合いになったことがあります。

 俗に言うゲシュタルト崩壊もそうですが、自分が変な人間だ、と自覚したことが、小説家を目指したきっかけの一つでもありました。
posted by つばさ at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 随筆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする