2013年05月28日

『幼年期の終わり』 アーサー・C・クラーク

 アーサー・C・クラークと言えば『2001年宇宙の旅』の原作が有名ですが、本作の方がSF小説の名作として高い評価を受けています。発行されたのは1953年で、まだ人類が宇宙への第一歩を踏み出す前であり、冷戦など当時の時代背景が色濃く反映されているのもおもしろいです。
 何かとらえどころのない独特の世界観を持つ、非常に興味深い1冊でした。



【あらすじ】
◆ 第1部
 人類が宇宙へ飛び出そうとするまさにその直前に、突然謎の宇宙船団が世界各地の大都市の上空に出現する。このエイリアンの宇宙船団の総督であるカレルレンは、人類に世界連邦政府を作って、戦争行為をやめ、平和を希求するよう要求する。エイリアンたちは人類を遥かに凌ぐ知力をもっていたため、地球人は彼らをオーバーロード(上帝、天上にあって万物を主宰する者)と呼んだ。
 人類の代表として国連事務総長のストルムグレンがカレルレンとの交渉の窓口となったが、世界連邦の樹立と独立国家の解体に反対する組織との話し合いにも苦慮する。
 オーバーロードは常に人類に対して友好的であったが、人類はオーバーロードの秘密主義、自分たちのことを何も語ろうとしない態度に不満をもつようになる。彼らの目的は一体何なのか?どのような容姿をしているのか?ストルムグレンさえオーバーロードの姿を見たことはなかった。人類のオーバーロードに対する好奇心は募る一方であった。
 あるときはやる好奇心を抑えられなくなったストルムグレンは、友人の物理学者に相談して、オーバーロードの実体をある程度確認できる装置をつくってもらい、それを携えてカレルレンとの会談に臨む。しかしカレルレンはストルムグレンの罠を見破り、50年後にオーバーロードは人類の前に姿を現すと約束する。
◆ 第2部
 50年の月日が経ち、オーバーロードはいともあっさりとその姿を人類の前に現した。人類より体が大きく、角・尻尾・羽があった。
 また50年の歳月が流れるうちに、地球には平和が訪れた。オーバーロードのおかげで地上から貧困・飢餓・無知・差別・疫病・戦争は一掃され、人類は繁栄を享受していた。
 友人のルーパート・ボイスのパーティーに招かれたジョージ・グレッグスンとその恋人のジーン・モレルは、パーティーの後、円盤を使った心霊現象ゲームに参加した(このゲームは日本のコックリさんにそっくり)。このゲームの終わりにオーバーロードの母星が言い当てられる。母星の場所を知ったボイスの義弟ジャン・ロドリックスは、オーバーロードの宇宙船に密航し、彼らの母星へ行く決意をする。
 そして第3部でオーバーロードが地球に来た目的が明らかになる・・・。

 本作はとても奥が深い作品です。ただ、それゆえに読みにくい。そして小説には珍しく主人公がいません。第1部から50年経って第2部がはじまり、第3部の途中で80年が経過するなど時間が次々移り変わるので、全体を通して生きているのはカレルレンなどオーバーロードだけです。しかしオーバーロードはあくまでも脇役で、主人公ではありません。『2001年宇宙の旅』にも同じことが言えて、前半はヘイウッド・フロイド博士、後半はディスカバリー号の乗組員のデイビット・ボーマンが主人公になるのでしょうが、全体を通した主人公がいません(『2001年』の映画を観た方はボーマンが主人公だとは思わなかったでしょう)。したがって感情移入する対象がいないのです。クラークには人間を主体とした小説を書く意志がなかったようです。
 またエピソードのつながりを把握するのも苦労します。突然初出の人物が出てくるなど、流れを理解するのにけっこう苦労しました。第1部でフィンランド語についてのくだりが2つほど出てきますが、これはストルムグレンがフィンランド人であることに気付かないと、なぜこんな話が出てくるのかわからないと思います。私がストルムグレンはフィンランド人であると推測できたのは、名前が北欧系であることと、国連の初代事務総長トリグブ・リーがノルウェー人、第2代事務総長のハマーショルドがスウェーデン人だとたまたま知っていたからです。物語を理解するうえで日本人が混乱しないように注釈があった方がいいのではないのか、と思いました。
 さらに作家志望者の視点から言うと、語り手にも問題があります。通常小説は1人称か3人称1視点で書かないとわかりにくくなると言われますが、本作は3人称多視点です。つまり物語の視点があちらこちらと移り変わるのです。そして作者自身が状況説明をするいわゆる神視点と呼ばれる記述も非常に多い。したがって相当気合を入れて読まないと訳がわからなくなり、途中で挫折するでしょう。
 物語の内容自体は充分読むだけの価値があります。オーバーロードが地球に来た目的などは実に斬新でした。クラークは宇宙の奥深さ・神秘をあますところなく記述していると思います。私は多くの人に本作を読んでいただきたいですし、だからこれから読もうとする方には、構成の複雑さに耐え抜いて読破していただきたいと願っています。

 映画化についてですが、私は本作を読み終えて、キューブリックはこちらを映画化したほうがよかったのにな、と思いました。『2001年』は最後が非常に示唆的・暗示的で観客の主観によってどうにでもとれる内容でした。キューブリックだからあれだけの名作に仕上げられたのだと思います(私はあまりに気に入ってDVDを買ってしまいました)。本作をキューブリックが映画化したらどうなっていただろう、そう考えると残念でなりません。
posted by つばさ at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする