2012年12月23日

学生運動――日本が革命を夢見た時代――

 今回私が1950年代後半から70年代初頭にかけて全国に吹き荒れた学生運動の嵐に焦点をあてたのは、次の書きものの題材に革命を取り入れようと思ったからです。歴史的に見ればフランス革命、ロシア革命、プロレタリア文化大革命と様々な革命がありますが、やはり日本を舞台にすることを考えると戦後学生運動が私の目指すべきものと一番しっくりくる感がありました。
 私は1971年生まれですので、もちろんリアルタイムで学生運動を見聞きしたわけではありません。それはよど号ハイジャック事件とあさま山荘事件の間の年です。したがって一から本を読んで勉強しなければならなかったので、参考図書には『全学連と全共闘』(伴野準一著、平凡社新書)を選びました。これは非常にわかりやくおもしろい本でした。この本だけで戦後学生運動の大雑把なアウトラインはつかめると思います。





【全学連と60年安保闘争】
 学生運動の主翼を担う全学連(全日本学生自治会総連合)が国公私立145大学30万人の加入を得て結成されたのは、1948年9月のことでした。全学連はすべての学生が自動加入する大学自治会の連合会で、共産党指導のもとに結成され、共産党は全学連を介して大学自治会の多くを掌握することになります。
 全学連の活動家たちは反軍国主義・反戦平和をスローガンに赤色革命を目指しました。ただこの当時はまだ反戦平和が活動の主目的であり、その延長線上にマルクス・レーニン主義があったようです。
 全学連は日本共産党の肝いりで活動していましたが、50年代に党本部がコミンフォルムの批判を受け武装闘争路線(極左冒険主義)を取り入れた挙句、総選挙で議席をすべて失い日和見主義へと迷走したこと、さらに大きな出来事として1956年にフルシチョフがスターリン批判を行い、それを受けてポーランドとハンガリーで動乱が起き、ハンガリー動乱についてはソ連軍が武力で鎮圧したことなど、内外で共産主義に激震が走りました。これらの騒動を受けて、全学連は日本共産党と決別し、また当時のソ連の在り方に疑問を抱き、理論的支柱にトロツキーを選択します。そして共産党執行部を見限った学生たちは東大の学生を中心としたブント(共産主義者同盟)を結成し、来るべきプロレタリア革命に備えます。
 1959年岸内閣が日米安保条約改定の準備を着々と進める中、ブントのメンバーは安保改正阻止を唱え岸内閣に対して対決姿勢をとります。同年11月27日、安保改定阻止国民会議の第八次統一行動日には全国各地で大規模なデモや集会が計画され、国会議事堂は5万人もの群衆で包囲されました。警察も装甲車やトラックを配置してデモ隊に備えましたが、陳情団の代表、社会党の浅沼書記長が国会に入るため一瞬正門が開いた瞬間にデモ隊の学生たちが次々と国会構内になだれ込み、現場は混乱状態に陥ります。国会構内を埋め尽くした2万人のデモ隊はプラカードを掲げ赤旗をはためかせ、ジグザグデモを繰り返し、労働歌を歌いシュプレヒコールをあげて気勢をあげました。全学連は国会突入に関して何も具体的なプランをもっていませんでしたが、突入に成功したことによって彼らは学生、労働者たちから広範な支持を集めるようになります。
 1960年5月アイゼンハワー米大統領の6月19日の訪日が決定したため、5月19日自民党は日米安保条約および関連法案などを強引に可決。安保条約は批准され、日本中を怒りが覆い尽くします。
 安保批准から学生・労働者と警官隊との小競り合いが断続的に続き、6月15日安保改定反対の統一行動が始まりました。全国でゼネスト、抗議行動が起こり、国会周辺は数万人のデモ隊で埋め尽くされ、立錐の余地もありません。学生たちはスクラムを組んで国会の南門中央大門に体当たりを始めました。厳重に固定してあった門の扉が学生たちの圧力に耐え切れずに開いてしまい、彼らは門を乗り越えて防御用のトラックも排除します。構内に入った学生たちはまたスクラムを組み、足踏みをしながら前進していきます。すると突然警官隊が警棒を抜いて学生たちに襲いかかりました。前列にいた学生たちは後ろへ逃げようとしますが、後方の学生たちは前で何が起こっているのかわからない。結果真ん中にいた学生たちは前後から圧力を受け人雪崩が起きました。そして東大文学部の樺美智子がその犠牲となり死亡します。国会構内は修羅場と化しました。警棒で殴られた学生があちらこちらでうずくまって倒れており、トラックには火がつけられ、警察は学生たちに催涙弾を打ち込みました。
 この日の騒動は「東京暴動」として全世界に報道され、世界中の目が日本に向けられました。政府は警備に万全を尽くすことができという理由でアイゼンハワー大統領の訪日中止を決定します。アイクの訪日中止はデモ隊にとって大きな勝利でした。
 そして6月18日、新安保条約の自然承認を目前に控えて、国会議事堂は数十万人という空前絶後の人々に包囲されます。これだけの大衆のエネルギーを爆発させれば、もしかしたら革命も夢ではなかったかもしれません。しかしブントにとって不運だったのは大衆を指揮できる優秀な活動家がこの日までにほとんど逮捕されていたことでした。万単位の人間を指導できる活動家はなかなかいるものではありません。結局ブントの指導部は爆発寸前の大衆エネルギーを指をくわえてみているしかありませんでした。
 これ以降学生運動は下火になり、ブントは革マル派、中核派などに分裂して自然消滅します。

【全共闘と東大闘争】
 東大闘争の直接のきっかけは医学部のインターン制度をめぐる騒動でした。1968年医学部の学生たちは過酷なインターン制度の改善を大学側に要求し、一部の学生が暴力行為に及んだため、医学部は退学を含む17人の大量処分を発表します。ところが譴責処分を受けた学生の中に現場にいなかったものがいることが判明し、医学部の学生たちは卒業式の中止など実力を行使して大学側に過ちを認めさせようとします。当初は東大の他の学部の学生さえ冷やかにこの騒動を見ていました。インターン制度廃止闘争は東大の中でも特権的な職能階級である医学部の学生の単なるわがままとしか思えなかったのだと思います。しかし医学部の学生が安田講堂を占拠したことに対して大学側が機動隊に学生の排除要請をしたため、学内全体に衝撃が走ります。機動隊を安易にキャンパスに入れた大河内総長に反発して、各学部が反発のストを決行し、さらに大河内総長のその後の不誠実な対応がさらに学生の怒りの火に油をそそぎました。そして7月5日理学部物理学科の山本義隆を議長とした東大闘争全学共闘会議(全共闘)が誕生します。
 しかし東大の学生が大学側を相手に権利の闘争を行うということは、その中に逃れることのできない自己否定を内包していました。当時の大学進学率は2割程度でその中でも東大生は最高のエリートです。いくら大学を批判したって卒業すれば彼らも特権階級の一員になるわけです。つまり特権階級を批判するということは、自らの将来の特権を放棄し、制度そのものを破壊しなければなりません。大学批判はおのずと刃が自分に向ってくるのです。
 東大闘争は本来東大学内だけの内紛であるはずでしたが、全共闘にプラスしてブントの流れをくむ革マル派や中核派などの新左翼セクトが闘争に参入して事態をややこしくしていきます。大学と学生との確執に加えて、ベトナム反戦運動が新左翼セクトの行動を助長していきます。
 60年安保闘争のときと違って、新左翼セクトのメンバーたちは最初から暴力を闘争の手段として正当化していました。したがって対立するセクト同士の内ゲバ(ゲバはゲバルトの略で暴力の意)が多発し、死者も出ました。こんな物騒な連中を中心として安田講堂攻防戦が展開されることになります。
 大河内総長が退陣して加藤総長代行が大学側の指揮を執り始めて、再三学生側に譲歩を示しますが、ゲバルトに染まった全共闘、新左翼セクトは大学側の提案を無視し、ついに1969年1月16日安田講堂を占拠します。ここに至ってついに加藤総長代行も万策尽きて機動隊に出動を要請しました。
 安田講堂攻防戦について「結局他大学の学生ばかりで東大生はほとんどいなかったんだろう」という批判はよく耳にすると思います。この批判は裏返せば「他大学の学生の野次馬根性」という陰口に収斂されることが多いですが、私は違うと思います。本来自分の大学・主義・主張は自ら貫徹すべきものです。ところが東大生は我が身可愛さ、保身のために闘争の現場から逃げた。その結果全共闘は他大学の学生に応援を求めざるを得なくなったというのが実情だと思います。所詮東大生は将来を約束されたエリートであり、その卑劣な計算に私は反吐が出る思いがしました。

【学生運動その後】
 革マル派と中核派の内ゲバの連鎖、そして1969年ブントから分派した新左翼セクト「赤軍派」が結成されます。赤軍派は最初から武力闘争を主眼としており、火炎瓶、爆弾の製造に精を出します。そして1970年3月31日赤軍派はよど号をハイジャックし、北朝鮮へ渡りました。さらに1971年連合赤軍が結成され、「総括」の名の下に12名の若者に集団リンチを加えて殺害。1972年2月19日にはあさま山荘事件を起こしました。ただ60年安保闘争を振り返りながら赤軍派、連合赤軍を見ると、もはや単なるテロリストになりさがっています。したがって彼らについてこの記事では詳述を避けたいと思います。

【最後に私の所感】
 ブントは学生を中心とした前衛党であり、世界に類をみないものだと思います。しかしそれゆえに大衆を革命に導く牽引力が弱く、またプロレタリア革命実現後のビジョンも曖昧でした。しかし彼らの活動の軌跡を読んで、私ははたと「理想の社会体制とはどのようなものだろうか?」という漠然とした疑問にぶつかりました。理想の社会が共産主義ではないことはソ連・東欧諸国の崩壊によって世界中の人が、共産主義者でさえも身に沁みたでしょう。共産主義では貧困も差別もないかわりに、夢も希望もありません。人間の欲望という変数がマルクスの方程式から抜けていたため、共産主義は失敗に終わったのです。このあたりについてはドストエフスキーが鋭い指摘をその著作の中で論じているので、機会があれば紹介したいと思います。
 私は右とか左とか単純な分類を嫌っていますが、現在の社会体制に不満があるので、その単純な分類からいえば左翼、革新派になります。しかし革新派とはいっても理想の社会体制とはなにかがわかりません。人類の営みが複雑多岐にわたっていることを考えると、そんな理想の社会など存在せず、その時々の最良の社会体制の中で妥協して生きていかなければならないのか、とあきらめざるを得ないような寂しい気持ちになります。

《補足》
 学生運動の記述の中で個人名は、テフォルメした文章の中で出してもあまり意味がないと思ったので極力だしませんでしたが、全共闘議長の山本義隆氏だけはあえて名前を出しました。それは私が高校物理を勉強しているときに、彼の書いた参考書を使っていたのですが、彼が全共闘議長という肩書をもっていたことを今更ながら知って驚いたからです。彼の書いた『物理入門』は難しいが格調のある参考書でした。私が受験生のころにはすでに駿台予備校の講師をしており、人気講師の一人でした。
 山本氏は学生の頃将来ノーベル賞を狙える逸材と言われていたそうですが、東大闘争の後大学を去っています。全共闘の中でも保身のため闘争から逃げた東大生が多い中で、彼はきちんと自己否定のけじめをつけて、潔く大学を去りました。彼は東大闘争のことをまったく口にしないそうですが、私は彼の高潔な精神に敬意を表したいと思います。

posted by つばさ at 01:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 随筆 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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