2013年01月15日

『悪徳の栄え』マルキ・ド・サド

 マルキ・ド・サド(1740〜1814)の名はみなさんと同じように、私もミスター変質者として小さい頃から知っておりましたが、その著作を読もうとは思いませんでした。しかしジョルジュ・バタイユが彼から多大な影響を受けていること、さらにまた世界の名著に挙げる人が少なくないので、いまさらながら『悪徳の栄え』を手にとってみました。
 実際読んでみると、ひどいですね。ただ下品でいかがわしいだけでなく、悪意に満ちています。「勧善懲悪」が「勧悪懲善」にひっくり返ってしまっています。一体何に対するメッセージなのか私にはさっぱりわかりませんでした。この小説に何らかの意味づけをする評論家が多いですが、もしそのようなものがあったとしても、私にはあまりに前衛的過ぎて理解できません。私が歳を取って、サドのいう「偏見(常識)」に満ちてしまったため、イマジネーションが枯渇してしまった結果そう思うのか、と不安にさえなりました。

 抽象的な話をしても何のことかわからないと思いますので、主要登場人物・エピソードを紹介して、彼の思想・趣味趣向を概観してみたいと思います。
※以下の記述には、本作の性質上、非常に猥褻で残虐・暴力的な表現が出てきます。こういう記述を好まない方、あるいはこれから本作を読もうと考えている方は、以下の記述を読まない方がいいと思います。

ジュリエット:本作の主人公。彼女の一人称で物語が進行していく。修道院で育ち、そこの尼僧院長に性と悪徳の手ほどきを受ける。修道院を出て売春宿にいるとき、ノアルスイユと宿命的な出会いを果たす。

ノアルスイユ:大金持ちの遊蕩児。娼婦として彼を訪問したジュリエットに徹底した悪の哲学を叩き込む。
「人間が従うべき唯一のものは自然の声であり、自然の発露たる情欲のおもむくままに生きるべきである。己が情欲によって犠牲者が出ても、それは自然の声にしたがっただけなので、やむを得ない」
「美徳は教育、ないし偏見の声でしかない。美徳は人間の恒常的な道徳ではまったくなくて、単に社会生活の義務が人間に尊重するよう強いた、不自然な犠牲的感情である。美徳は人間において第二の衝動にすぎず、他人と独立した人間の内部に存在する第一の衝動は、相手かまわず他人を害して自己の幸福を築こうという欲望である」
「一般に罪と呼ばれているものは、すべて偶然的であれ計画的であれ、人間が法律と呼んでいるものに対する形式的な違反である。これによってもわかるとおり、罪とは何と手前勝手で無意味な言葉だろう。すなわち法律というのは風俗や風土に関係のあるもので、土地土地によってずいぶん変わるものものだから、われわれにはこの上なく恐ろしく醜怪に思われる罪悪だって、どこか他の土地へ行けば、立派なものとして崇められているのである」
 文化相対論的な意見まで持ち出して、恐ろしい悪の思想を正当化している。
 ジュリエットの父親が破産して、両親が相次いで死んだエピソードが修道院時代の記述の中に出てくるが、父親を破産させたのは自分であること、のみならず彼女の両親を毒殺したのも自分である、とノアルスイユは告白する。しかしジュリエットはノアルスイユの悪行に、その汚らわしさと残忍さゆえに感動し、さらにノアルスイユを尊敬するようになったため、以降彼から特別の寵愛を受けることになる。

サン・フォン:フランスの首相、大臣。ノアルスイユがジュリエットに紹介。好色・残忍で国家財政をごまかして莫大な富を築いたり、無実の人2万人以上を牢獄に放り込んでいる。ジュリエットの邪悪な魂が気に入り、ノアルスイユに変わって彼女の庇護者となり、あらゆる人間の自由を奪うことのできる白紙の勅命拘引状をジュリエットに与える。
 サン・フォンはノアルスイユと結託してノアルスイユ夫人の殺害を計画し、ジュリエットにノアルスイユ夫人を毒殺するよう指示する。彼女は壮絶な拷問の後、サン・フォンに鶏姦(肛門性交)されながら息絶える。
 またジュリエットの屋敷で乱交パーティーが開かれたとき、乞食の老婆がサン・フォンに施しを求める。老婆はサン・フォンの悪行によって夫を投獄され、全財産を失った。老婆の家に行くと8歳か10歳の男の子と女の子が寝ており、サン・フォンはその子ども2人と老婆を鶏姦した上、皆殺しにする。
 彼は専制君主制を支持し、暴力による支配を正当化する。また下層階級の人間を蔑視し、生まれによる人間の能力の差異を肯定する。
「・・・要するに、自分がしてほしくないことを他人にするな、という精神は、報復を恐れる気持ちだ。つまり自然の法則とは縁もゆかりもない表現を自然に押し付けることができたのも、一にこれ返報を恐れる気持ちからだというわけだ。だからこそわしは断言するが、人間のもっとも根源的な、もっとも激しい傾向は、その同類を鎖で縛りつけ、あらゆる暴力でこれを圧迫することにきまっている」
「わし自身で調べ、熟練した解剖学者に観察させた結果、わしは上流階級と下層階級の子どもたちのさまざまな肉体上の構造に、いかなる類似点もないことを断言するに至ったのだからな。まあ、仮に両者を野放しで育ててみるがいい。上流階級の子弟の示す趣味や傾向が、下層階級の子どもたちのあらわすそれらに、いかにはなはだしく違っているかが、諸君にもわかるだろう。感情や素質も、両者の間ではまるで違っていることが認められるだろう」
 彼はまた、フランスの国土を荒廃に陥れ、人口を減らすことを宿願としている。
「やがて近いうちに、王国には革命が起こるに違いない。革命の萌芽は多すぎる人口のうちに胚胎するものだ。人民は伸びれば伸びるほど危険になり、知識の光に浴せば浴すほど、あなどるべからざるものとなる。奴隷のように屈従するのは無知の輩だけだ。だから、わしらはまず無料の学校を廃止しようと思う・・・人民どもが才能を持つ必要が、いったいどこにあろう?むしろ彼らの数を減らすに如くはない。フランスの人口は強引な瀉血を施す必要がある。(一挙に人口を減らす迅速な手段として、戦争、飢饉、ペストがいいのではないと問われると)いずれわしらは戦争をはじめるつもりだよ。飢饉については、わしらが穀物をすっかり買い占めてしまえば、まずわしら自身が大儲けをし、やがて人民どもも共食いをはじめることになろうから、この意見は一考の余地がある」

クレアウィル夫人:ノアルスイユの紹介でジュリエットと友達になる。金持ちで教養が高いが、やはり邪悪な魂の持主で、徹底した無神論者である。男は平気で殺せるが、女は殺さない主義。
 あるときジュリエットと教会へ行き、懺悔室で神父をたぶらかし、神父の家で乱交に耽る。神父は長さ30cmの両手で握ることもできない巨大な一物をもち、クレアウィルを昇天させる。神父は、自分の一物に耐えられるのは、その上司の修道院長のケツの穴だけだと言う。クレアウィルは、それまで感じた事のないエクスタシーを神父に与えられたこと、ただそれだけのことで彼を憎悪し、次にあったとき、彼の一物を切り取って殺してしまう。

ベルノール:ジュリエットの実の父親。ジュリエットは母親とベルノールの不倫の結果できた子どもであると明かす。彼はジュリエットに施しを求めにきたのであるが、ジュリエットは一計を案じた。実の父親ベルノールに自分と姦通するよう誘導し、その最中にサン・フォンを呼んで近親相姦の現場を取り押さえさせた。ベルノールはジュリエットに銃で撃ち殺され、他に現場にいたノアルスイユ、クレアウィルと4人で、テーブルの足元に死体を転がしたまま夕食を楽しむ。

 ジュリエットがサン・フォンの寵愛を受けて、その人生が絶頂の極みにあったとき、サン・フォンはジュリエットに穀物の買い占めをすることによって、国民の3分の2を餓死させる計画をもちかけ、ジュリエットに重大な役割を演じるよう依頼する。この恐ろしい計画を聞いてジュリエットはうろたえるが、その怯んだ様子をサン・フォンは見逃さなかった。翌日ジュリエットはノアルスイユから、彼女がサン・フォンからの寵愛を失ったので、早くパリを脱出するよう促す手紙を受け取る。

 パリを出てアンジェールという町でジュリエットはロルサンジュという伯爵と結婚、財産にも恵まれ、女の子を出産する。しかしサン・フォンがまだ彼女を捜索しているという匿名の手紙を受け取って、ジュリエットは怯え、善良な夫を毒殺し、遺産を手にいれ、娘を教会に預けて、イタリアに逃亡する。

ミンスキイ:イタリア北部のアペニン山中に城を建てて住んでいるロシア人。身長が221cmある大男で、常に勃起しており、その一物は長さが54cmもある。若い頃、中国、モンゴル、アメリカ、アフリカと世界中を旅した。アフリカで食人の習慣に出会って、それが気に入り、毎食人肉を食べている。城の中に2つの後宮をもっており、そこにいる女性はあわせて400人にのぼる。もちろん男色の相手も置いている。奴隷を凌辱しては殺し、その肉を食べる。中庭では猛獣を放し飼いにしており、怪我をしたり病気になって使い物にならなくなった奴隷を食べさせている。

トスカーナ大公レオポルド:実在の人物(1747〜1792)。のちの神聖ローマ皇帝レオポルド2世。マリア・テレジアの息子でマリー・アントワネットの兄。ジュリエットが大公に謁見した際、王の権威を振り回したため、彼女に反撃を食らう。
「あなたは神聖犯すべからざる王様のつもりでいらっしゃるようだけど、馬鹿も休み休みにして頂戴。あなたを創った神様は、あなたの国の最下等の人間と別段違った生命をあなたに授けたわけではないのよ。あたしにとって、だからあなたは、そういう最下等の人間以上に尊敬すべき人間でもなんでもないわ。あたしは平等思想の熱烈な信者ですからね。ある人間よりも優れた人間がこの地上に存在するなんて絶対に信じないの」
「あきれた人ね!そんな称号が何だというの?あたしから見れば、王の称号なんてやくざなものよ!だいたいあなたが現在の地位にありつけたのは、偶然の結果ではなくって?現在の地位を手に入れるために、あなたは何をしたというの?最初の王のように、勇気もしくは才能によってそれを手に入れたというんなら、それはまあ、何らかの尊敬を要求することもできましょうがね、しかし単なる相続によって王になった人間は、人間の同情を要求する権利しかありやしませんよ」
 本作に出てくる悪人は、みんな似たり寄ったりの考え方をしているため、サン・フォンの階級差別を正当化する思想とは反対のことを述べた上記ジュリエットの台詞には驚いた。またこれだけのことを言われて、何も反論しないレオポルドも不自然。

ドニ伯爵夫人:フィレンツェで知り合ったジュリエットのレズ仲間。自分の母親と娘を、ただ快楽のために殺してほしい、とジュリエットに依頼するが、ジュリエットが娘のアグラエに会い、その美貌に目がくらんだ結果、逆にドニ夫人は図られて殺されてしまう。ドニ夫人には不倫の結果できたフォンタンジュという娘がいる。

ギージ:ローマ警察長官。ローマ市内の病院、養育院を焼き払えば、大金を払うといい、実際に焼き払って、二万人以上の死者を出した。以下の台詞でみるように、非常に危険な思想の持ち主。
「貧乏人は国家にとって、果樹における無駄な枝みたようなものではなかろうか。それは樹木を枯らし、その養分を吸い取って、しかも何の役にも立たない。農夫はこんな枝は切り落とす。政治家も農夫のように行動すべきはもちろんだ。自然の根本法則の一つは、この世に無駄なものがないということだ」
「(法律は不要だというギージの意見に対して)こんなことを言って反対する人がいるかもしれない。人間は社会生活を欲するものだ。したがってそのためには、個人的幸福の一部分を公共の幸福のために犠牲にしないわけにはいかない、と。よろしい。けれども、このような契約をつくった以上、少なくとも犠牲に供した分だけは確実に回収できなくては意味がないのではないか?ところが人間は法律を認めつつ、自分がつくった契約から何ものをも回収しないのだ。それが証拠に、諸君はこの契約を満足に思うより、はるかに多く重荷を感じている。そして法律が契約を保証する場合より、契約を阻害する場合の方が千倍も多いのだ」

ローマ法王ピオ6世:実在の人物(1717〜1799)。日本語ではピウス6世と表記される。この人の実際の評価はともかく、ジュリエットがキリスト教と歴代ローマ法王を罵り倒しても、驚くだけ。そして下記の台詞を述べる。
「わしだっておまえ同様、そのような宗教的儀式に別段信を置いてはおらんよ。おまえも承知の通り、弱者を欺くためには、そうしないわけにはいかないのだ」
 そして例のごとく、ジュリエットたちと淫蕩に耽る。

ブリザ・テスタ(ボルシャン):盗賊の頭。ジュリエット一行がローマからナポリへ向かう途中、その手下たちがその一行を拉致する。ジュリエットたちが命を諦めかけたとき、ブリザ・テスタの巣窟でクレアウィルと再会する。クレアウィルはボルシャンの実の妹で、二人は近親婚をしていた。
 ジュリエットとクレアウィルの再会の後、しばらくボルシャンの一人称でその半生が語られる。ボルシャンは幼い頃から、父親から性教育を受け、男色関係を結んでいた。彼は父親の命で母親を殺したが、父親の裏切りを知り、父親も殺してしまう。そしてクレアウィルをフランスに残してヨーロッパ放浪の旅に出る。

カタリナ女帝:受験世界史頻出のエカチェリーナ2世(1729〜1796)のこと。実際の評価とは別に、この女帝も淫乱で残酷な人間として描かれている。ボルシャンがロシアを訪問した際に、エカチェリーナに謁見し、気に入られたため、女帝の息子である王子の暗殺を依頼される。ボルシャンは王子に毒薬を飲ませるが、異変に気付いた王子がすぐに解毒剤を飲んだため、暗殺に失敗、ボルシャンはシベリアへ送られる。


 以上が印象に残っている登場人物でした。他にも何人か悪人が登場しますが、どれもこれも似たり寄ったりです。自然の発露たる性欲のおもむくままに生き、性欲が求める悪事を正当化します。考え方はノアルスイユもギージもカタリナ女帝も同じです。彼らが悪行を重ねることに理由はありません。悪事そのものが快感なのです。そしてラストは「悪者万歳!」という常識では考えられない終わり方をしており、それが読者の頭の中を多くの「?」で満たしてしまいます。
 また本書の特徴として、後のニーチェにもつながる「力への回帰」という思想が随所に見られます。ニーチェはカエサル、ナポレオン、ビスマルクなど特に秀でた人間を、人間的なエネルギーに満ちた存在として崇拝しますが、この思想はサドを起源にしているのでしょう。サドの思想を端的に言えば「この世には強者と弱者がおり、強者は富裕階層で悪徳に満ちており、弱者は善良で貧しく、強者に支配され、虐げられることをその使命としている」ということだと思います。人間的エネルギーに満ちたものがいて、彼らが社会の頂点に登りつめるという考え方は、私も自己の経験上正しいと思います。私たちとはまるで馬力の違うエンジンを積んだ人間がいるということは、残念ながら認めざるをえません。
 それから本書において、〈肛門性交・男色・近親相姦〉がしつこいぐらい登場します。セックスは肛門性交、男が2人以上寄れば必ず男色、といったことが、くどいほど繰り返されます。いい意味に考えれば、この3つは当時の社会では罪とされていたので、サドがタブーを破って既成の価値観に挑戦した、と捉えてもいいかもしれません。また別の見方をすれば、ただ単にサドの病的な性癖を反映したに過ぎないとも捉えられます。私はこちらの方が真実だろうと考えています。
 私は本書を読み終えて、サドに対して否定的な意見しかもちませんでした。彼は究極のエゴイストであり、自分さえよければそれいい、と考えています。もっと言えば人間の屑なのです(バタイユも私生活では人間の屑と見なされています)。私たちは、人間、頭がおかしくなれば、ここまで危険な存在になりうるので、充分注意して生活しなければならない、という反面教師としての教訓を本書から学び取ることができるでしょう(そして自分に子どもがいたら、絶対にこの本は読ませません)。

 サドについては否定的な見方をしつつ、とても興味深い人間だと思いましたので、機会があれば、またご紹介したいと思います。




posted by つばさ at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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