2013年02月07日

『月と六ペンス』サマセット・モーム

 ご存知の方も多いかもしれませんが、この作品の主人公はポール・ゴーギャンをモデルとしています。私もそういう認識で読み始めたのですが、ゴーギャンと主人公(チャールズ・ストリックランド)に共通する点は、天才画家であることと、タヒチで晩年を過ごしたことだけでした。ストリックランドは南仏アルルでヴィンセント・ファン・ゴッホと共同生活をしませんし、もちろんゴッホが切り取った自分の耳をゴーギャンに送りつけることもありません。ゴッホについての記述は作風が多少似通っていると思われる画家にセザンヌやゴッホがいるが、ストリックランドが彼らについて語るところなど、私は聞いたことがない≠フ一文だけで一蹴されています。
 本作のストリックランドはゴーギャンにヒントを得ながらも、モームが独自に生み出した架空の天才芸術家として描かれているのです。
 ちなみに本作でストリックランドは41歳で株式仲買人をやめて、画家として始動します。アラフォーの私もまだまだ、と勇気づけられました。

【あらすじ】
 「私」(モームの分身、名前は最後まで出てこない)は新進気鋭の作家。私の一人称で物語は進んでいく。ある文壇の士が集まるパーティーで、友人の作家からストリックランド夫人を紹介される。ストリックランド夫人の夫は株式仲買人をしており、夫人の主催する晩餐会でストリックランドと出会うが、私は特別な印象をもたなかった。ところが夏休みの終わりに、ストリックランド夫人から私に連絡があり、突然家族を捨ててパリに飛び立ったため、パリに行って夫に会い、連れ戻してほしい、と依頼された。私は渋々パリに向かい、ストリックランド本人と会って話をするが、彼は「絵を描きたくなった、描かねばならん」と答えるだけでロンドンに戻る意志は全くない。17年間も勤めた株式仲買人の立場と家族を捨てて、それだけの理由でパリに来たストリックランドの本心が私にはわからなかったが、本人に帰る意志が毛頭ないため、私は説得虚しくロンドンへ帰り、家族にありのままを報告する。
 それから5年後、ロンドンでの生活にうんざりした私は、生活を一から立て直すため、パリに向かう。そこでストリックランドと再会する・・・。

 語り手がパリに移ってから、ストリックランド接してわかったことは、彼が残酷・身勝手・粗野・無神経な人間の屑であることでしたが、何より理解できないことは、ストリックランドが他人からの評価を全く気にしていないことでした。そんな人間などいないと思っていた語り手は、驚いてこんな人物評をしています。
他人の意見などほとんど気にならず、常識など眼中にない。勝手気ままに振る舞うところは、見ていて実に腹立たしいが、体中に油を塗りたくったレスラーのようなもので、どうやってもつかまえきれない
 そして語り手の友人であるオランダ人のダーク・ストルーブに対する卑劣な仕打ちで、ストリックランドに対する嫌悪感が決定的になりますが、なぜか彼との交際を断ち切れません。(ちなみにゴッホもオランダ人)
 ストリックランドがマルセイユに発ったあと、語り手と彼との交際は途切れますが、私が一番おもしろいと思ったのは、ストリックランドの天才としての描写です。天才とは狂気と紙一重、ストリックランドはその非常識さゆえに、常に周囲と軋轢を生みます。しかし屑のような人間でありながら、絵は天才。後にストリックランドに酷い目に遭うストルーブは、ストリックランドの作品についてこんなセリフを述べています。
美はこの世で最も貴重なものだ。浜辺に転がっている石ころとは違う。通りがかりの人が何気なく拾い上げるようなものじゃない。美というのはね、不思議で素晴しいもの、芸術家が心で苦しみぬいて、この世の混沌の中から生み出すものなんだよ。でもね、生み出されたからからと言って、誰もが見て、すぐに美だとわかるわけじゃない。それが美だとわかるためには、芸術家の苦しみを自分の心でも繰り返さなくちゃ……。美は、芸術家が君に歌ってくれるメロディだ。それを自分の心でもう一度聞くためには、知恵と感性と想像力がいる
(ストルーブは他人の絵に対する鑑識眼は優れているが、自分の描く絵は三流。そしてストリックランドの作品については彼の死後、評価されます)
 私はこれをいいセリフだと思いました。マネ、モネ、ルノワールなど印象派以降の絵画の良さが全くわからない私は、その絵を鑑賞にする態度に、何か問題があるのかな、と省みてみました。

 前半はストリックランドの人物描写が優れていたので、非常に面白かったですが、後半、ストリックランドの死後、語り手がタヒチに渡ったところから、今ひとつ話のつかみどころがなくなってしまいます。残念でした。
 私が後半に期待したのは、天才画家の創造への衝動と、これだけ卑劣な人間がなぜ17年間も株式仲買人としてやっていけたのか、という謎を解き明かしてくれることでしたが、結局それは謎のまま物語は完結します。ところが文庫の解説を読むと、その筆者は結構奇抜な解釈をしていました。
この小説は、独身者である男性作家の語り手が、ある男性芸術家の謎を解き明かしたいとの欲望に衝き動かされて南太平洋まで旅をして、その人物について語る構造をもつ。つまり自分を惹きつけてやまない理解不可能な他者をみつめ、知ろうとする、そしてその生に寄り添おうとするこの小説は、表面上にはあらわれないけれども、じつは同性愛的な眼差しで語られた愛の物語であるともいえる
※サマセット・モームは同性愛者として有名。
 これを読んで、私は「同性愛者というだけでこんな解釈をされてしまうのか」と驚きました。モームが本当にこんなことを考えていたのかは、もうわかりません。しかし評論家というのは、いろんなことを言うものです。同性愛者ではない私には、この評論家の説が全くピンときません。

 余談ですが、私にはホモとゲイとかいう人たちのことが理解できないし、周りにもそのような人は一人もいません。会ったこともありません。男同士の友情がなければ、男として生きる価値がないと思いますが、男が男に性的な欲望をもつということを、生理的に受け付けられないのです。よくテレビでサンフランシスコの風景が出てくると、革パンに穴を開けて、尻を出して歩いているおじさんたちを見ますが、あの人たちはいったい何をしているのでしょうか?
 作家志望者として、是非一度、本物のゲイやホモといった人たちの話をじっくり聞いてみたいものです。


posted by つばさ at 16:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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