2013年04月09日

『平和主義とは何か』 松元雅和著 中公新書

 今回は『平和主義とは何か』――政治哲学で考える戦争と平和――(松元雅和著、中公新書)を買って、平和について考えてみました。我が国には誰もが避けて通れない「憲法九条改正」の問題がありますが、私は条件付きの改憲派です。

 振り返ってみると、20歳あたりから私はずっと護憲派でした。逆に高校生の頃までは「日本は世界一の軍事大国になるべきだ」と考える好戦的な人間でした。今考えると恥ずかしいですが、武力で他国を威圧・恫喝することを是としていたのです。
 しかし高3のときに大学受験に直面し、二浪したため、地獄の3年間を送り、心身ともに疲れ果てました。気が狂いそうな、あるいは気を狂わせてしまった3年間苦悩に苛まれ続けた結果、脂が抜けきってしまい、人格が豹変しました。
 戦争・武力に対する考えも変わり、疲れ果てて、好戦的なマッチョな思想についていけなくなりました。そして憲法九条と自衛隊が並存する我が国の現実に苛立ちを感じるようになりました。それからは「日本は国際社会に素手で立ち向かうべきだ。優秀な民族は武器はもたない」と考えるようになります。

 しかし本書でも触れられていますが、「愛する人が襲われても、非暴力を貫き通せるのか?」という命題に突き当たったとき、はたと立ち止まってしまいました。「自分が無抵抗で殺されるのはかまわないが、愛する家族までが殺されるのは我慢ならん」と悩み、「私の平和主義は間違っているのではないか」と思うようになります。実はこのとき、反戦主義と非暴力(つまり個人レベルの正当防衛)を同列に考えるという間違いを犯していたわけですが。
 現在の私の条件付きの改憲というのは、武力は国を守るための最低限のレベルにしておく、さらに軍隊をもつのなら、アメリカ軍には即刻日本から出て行ってもらう、ということです。
 仮に今憲法九条改正の国民投票を行ったとしたら、圧倒的多数で改正派が勝利するでしょう。韓国・中国との領土問題に直面して、我が国は明らかに保守化しています。日本はまだ武力を持たずに国際社会を渡り歩けるほど、精神的に成熟していないということです。非暴力主義とはまだまだ単なる理想に過ぎないですね。

 それでは本書を批評してみますが、正直に言って「買うんじゃなかった・・・」と後悔する本でした。人間社会は論理で割り切れるほど、単純なものではありません。それを筆者は強引にロジックで押し通して、結果何が言いたいのか最後までわかりませんでした。
筆者が考える哲学的アプローチの重要な特徴は、論理性を重視した論証に沿って議論を進めることである
 筆者も本文でこう述べています。結果、思想の分析と細分化・場合分けに終始し、筆者の論点がぼやけてしまっています。平和主義を単純化・抽象化して分類しようと試みていますが、それでは何を言っているのかわからないし、当然読者である私の心にも響くものがありませんでした。書いてあることが頭からスルスルと抜けていきます。政治哲学という学問がこういうものなら、あまりに無益で、虚しい存在のように思えました。
 さらに筆者独自のエピソードに基づく具体例が一つもない。だから話に説得力がない。なにかの本で読んだ他人の見解の受け売りばかりです。筆者は相当本を読んでいることはわかります。頭もいいのでしょう。レトリックは素晴しい。しかし本書については、そのことがかえって現実社会を知らない学者が、ジグソーパズルのように組み上げた机上の空論の如き印象を与えてしまっているように思います。

 ともかくそれでは、本書を手短に概観したいと思います。筆者は平和と戦争に対するアプローチの違いによって、平和主義者・非平和主義者をいくつかに分類しています。

平和主義(第1章):平和主義には無条件に暴力行為を否定する絶対平和主義と、非暴力に関して何らかの例外を認め、反戦に重点を置く平和優先主義がある。
義務論(第2章):ある行為の正しさを、その行為それ自体から判断する考え方。「戦争による殺人は許されるか」「戦争において民間人・兵士に責任はあるか」などの命題を延々と論じている。
帰結主義(第3章):戦争はそのコストに見合わないからするべきではない、という考え方。もちろん戦争をすることで採算がとれるなら、この考え方の人たちは戦争を否定しない。戦争と平和を損得の秤にかけてどちらがいいか判断する。「こんな考え方をする人がいるのか」と私は驚きました。
正戦論(第4章):戦争は忌むべきものだが、同じ戦争でも道徳的に正しいものと不正なものがあるとする考え方。
現実主義(第5章):後述。
人道介入主義(第6章):後述。

 この中の一つである〈現実主義者〉の主張が「世界は中央政府が存在しない無政府状態である。したがって平和を実現するには武力を使用せざるを得ない」というものです。

【世界は中央政府が存在しない無政府状態である】
 国家には警察があり、殺人・強盗などその構成員の権利をおびやかすような行為に対しては、犯罪者を捕らえて罰し、被害者を保護することができます。しかし国際社会はそうではありません。国家における警察の役割を果たすべき国連は「君臨すれど、統治せず」の状態です。
 私が思うに国連がうまく機能しないのは、その決定が大国の利害に左右されて、加盟国全体の意向をきちんと反映できないからでしょう。要するにアメリカの言いなりです。だから他の加盟国が国連を信用しない。
 したがって筆者はこう述べています。
国際社会において、善悪や正不正といった言辞を弄することは、安全保障の役に立たない。なぜならそこでは、訴えを聞き入れるより上位の権威が欠けているからである。この理由から、国家が安全保障を追及するためのもっとも重要な手段は、物質的能力を指標とするパワーだということになる
 第二次世界大戦後、平和主義者が世界政府・世界連邦のような構想を練ることはあったそうですが、いまだ実現にはいたっていません(私もこのような組織を切望します)。また仮に世界政府のような組織が実現した場合、加盟国の内政にまで干渉できるのか、という問題があります。国家レベルで換言すれば、家庭内の問題に警察権力が介入するようなものです。
 世界はアナーキーなため、各国は安全保障を確保するために軍備を増強します。各国が武力を増強した結果、怖くて他国に武力侵攻ができなくなります(冷戦構造がまさにこれにあてはまります)。これを勢力均衡といい、結果として平和と秩序が保たれるので、現実主義者はこれを支持します。実は勢力均衡には、無限の軍拡を要求されるという落とし穴があるわけですが。
 現実主義者にとって、平和主義者は非暴力という高邁な美学を振り回して、破滅への道を驀進しているようにしか見えないのです。しかし現実主義者たちは、きちんとありのままの社会を見つめ、平和を維持するにはどうすべきか、自国の安全保障を確保するにはどうすればいいか、を真剣に考えた結果、勢力均衡などの武装した上での自衛を主張します。なぜなら歴史を紐解けば、ヒトラーのような話の通じない相手がいるわけで、こういう輩を相手に自国の安全保障を確保するには、武装せざるをえない、自衛戦争はやむをえない、と考えます。ところがこの自衛という言葉が曲者です。この言葉を発する人間の都合によって、自衛の解釈がいくらでも広がっていくからです。
 それでは筆者はどうすればいいと考えているのか?
 仮に自国に他国が侵略してきたら、侵略者に対してサボタージュやストライキといった自国内での非暴力・不服従運動で抵抗すべきだ、と述べています・・・結局カンディーの受け売りでした。

【人道介入主義】
 これは全く耳慣れない言葉だと思います。私もこの本を読んで、初めてこんな言葉があることを知りました。もっとも本書には、初めて聞く言葉が山ほどありますが。
 人道介入主義とは、他国で人権侵害が起きている場合、それを阻止するために武力介入することを正当だとする考え方です。冷戦の終結以降、旧ユーゴスラビア、ソマリア、ルワンダなどにおいて大規模なジェノサイドが発生するに及んで、生まれた考え方です。
 我が国も何かとアメリカに巻き込まれて、厄介な思いをしました。1991年の湾岸戦争では、金だけ出して自衛隊は出さなかったため「小切手外交」と馬鹿にされ、また当時はPKOという言葉が大流行しました。また2001年の同時多発テロの後、アーミテージに“Show the Flag”と内政干渉同然の暴言を吐かれ、私は驚きました。平和憲法を押し付けておきながら、自分たちの都合によって「自衛隊を出せ」というアメリカの政治家たちの知性とモラルの低さに驚いたのです。ただアーミテージに対して何も言い返せない日本の政治家には、初めから何も期待しませんでした。
 この人道介入主義に関して、私が著者に共感したのが、大国はいずれにしても軍事介入をする前にやるべきことがあるはずである≠ニいう批判です。ルワンダのジェノサイドの犠牲者は約100万人と言われていますが、国連開発計画の統計によれば非衛生的な水と粗悪な衛生設備が原因で死亡する子どもの数は年間180万人にのぼる≠サうです(本書に「どこで」という記述はありませんでしたが、おそらく「世界中で」ということでしょう)。
 人道主義に基づく軍事介入も結構ですが、なぜアメリカは途上国に浄水設備を作って人道支援をしないのでしょう?・・・それはもちろん地味で目立たないからです。地味で目立たない人道支援をしても、有権者にその行為が伝わらないからです。それはマスコミが地味なニュースを無視するからです。視聴者がそういうニュースを退屈がって見ないからです。
 人道支援というのは民主主義の盲点ですね。問題の解決点というのは、おそらくすぐには見つからないでしょう。私たちが意識を変えない限り。他人の不幸を対岸の火事と素通りするのではなく、我がことと同じ目線で捉えるという心構えをもたないと、世界平和なんていつまでたっても絵に描いた餅でしかありません。そしていつその不幸が自分に襲いかかってくるかわからないのです。



posted by つばさ at 23:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なるほど、平和主義といっても色々あるんですね。戦争と平和を考える場合、確かにつばささんのおっしゃられるように、自分や自分の家族・友人が戦争やいざこざに巻き込まれる事態になれば話は別…となりますよね。
非暴力・不服従の闘いを貫いたガンジーやキング牧師のように、何か大きな目的を達成する場合は多少の犠牲は致し方ないのでしょう。実際、彼らの運動によって、その後の多くの命や人権が守られる時代になりました。彼らの功績は大きい。
イエスも同様に、自らの死によって弟子たちを勇気づけ、世界中に隣人愛と許しの思想を広めることができました。
宮沢賢治はそういった(世界を幸福にするという)理想と現実(身近な者への愛)のはざまで葛藤しました。
さて、いくつかの平和主義の考え方の中に、人道のための戦争はやむを得ないという立場がありました。人権や人道を守るためなら、それを侵している者に制裁を加える、つまり殺すことは許される、ということでしょう。
ですが、死刑制度と冤罪の関係と似た問題をはらんでいます。アメリカやイギリスの無人爆撃機が罪のない一般市民を爆撃によって殺してしまっているという事実。また、先のイラク戦争のように、イラクに「大量破壊兵器がある」という大義名分で始まった戦争は多くの一般市民を巻き込んだばかりか、大量破壊兵器そのものがどこを探しても見つかりませんでしたね。背景には、当時大統領だったブッシュやその親族らの石油に対する利権があったそうです。
そうなると、アウシュビッツやソマリヤの悲劇を見過ごせとなるのでしょうか?
私が考えられる案というのは少し現実離れしているかもしれません。地球上にある衛星からピンポイントで狙ってレーザーを発射できるシステムがアメリカ等で進められているそうです。それはまぁ、軍事目的なのですが、このシステムを平和利用しては、と思うのです。
これを国連が管理し、中規模以上の武器使用が確認された場合、自動的にレーザーが照射され武器を破壊するというものです。この設定はどの国も変更したり自らの利権のために利用することはできません。生物化学兵器にも対応できるようにします。いずれは地球外からの敵に備える?こともできるかもしれません。
ともかく、人道に対する違反などに対しては基準が時代や地域によって違ったりするので実は難しいですが、これでひとまず大きな戦争は防げるのではないかと思います。
まったくの机上の空論ですが、案としていかがなものでしょうか?

Posted by minebi rimei at 2014年03月28日 12:16
minebi rimeiさん、いつもありがとうございます。私が体調を崩してコメントをお返しするのが遅れてしまいました。すみません。

minebi rimeiさんの提案、奇抜ですね。もし衛星からレーザー照射をして破壊すべきものがあるとすれば・・・それはホワイトハウスだと私は思います。あそこの無能な政治家・官僚たちをレーザー照射で一掃できれば、世界平和も実現可能かと・・・。

まあ冗談はともかく、私たち一人ひとりが平和への意識を持ち続けるのが、平和を維持するために一番必要であり、かつ効果的だと思います。
Posted by つばさ at 2014年03月30日 03:52
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