以前も漱石の三部作の記事をご紹介いたしましたが、また久しぶりに『行人』を読み返してみました。『行人』は漱石の作品の中で、私が一番好きなものです。今回は中高生の需要が多い読書感想文の形でまとめてみました。漱石の読書感想文としては『こころ』や『三四郎』の方が需要が圧倒的に多いですが、これらの作品は他のサイトにたくさん感想文例が掲載されているので、あえて自分のお気に入りの『行人』を選びました。
YAHOO知恵袋で、今の中高生の課題としての読書感想文の原稿用紙の枚数は5枚程度と聞いたので、5枚にまとめてみましたが、あまりに短いですね。苦労しました(苦笑)。
帰京後も、一郎は夫婦の不和の原因を妻になすりつけ、徐々に精神の安定を失っていき、妹のお重を使ってテレパシーの実験をするなど、一家を不安にして、鼻つまみ者になってしまう。
家に居づらくなった二郎は家を出て下宿をするが、一郎の奇行はとまらない。心配した二郎と両親は、一郎の友人のHさんに一郎を旅行に連れて行ってもらうよう依頼する。Hさんは了承し、一郎を旅行に連れて行くが、旅先から届いたHさんの手紙には、一郎の奇怪な言動が克明に記されていた・・・。
物語の前半、一郎の弟である語り手の二郎と一郎夫婦、それから一郎と二郎の母の四人で和歌の浦を訪れますが、夫婦仲のうまくいっていない一郎は突然二郎に自分の妻の直と一夜を過ごすよう依頼します。一郎は何の根拠もなく、二郎と直の不貞を疑っていたからです。二郎は猛反発しますが、行きがかり上、兄嫁と一晩同じ宿で過ごさざるをえなくなり、結果彼は兄嫁のことを理解するようになって、一郎夫婦の不自然さは一郎自身に責任があることに気がつきます。直の頬の蒼さを記述した部分が何度も出てきますが、この描写は漱石が直の非常に不幸な結婚生活を暗示しているように私には思えました。
本書の大きなテーマの一つは一郎の他人に自分のことを理解されないという孤独や不安にあるのですが、その一方で、直の方も実家を出て長野家で孤独な生活を送っていることに、私は気の毒な思いがしました。自分を理解してくれるのはまだ小さい娘の芳江だけで、一郎と二郎の妹のお重からは、夫に対する態度が冷淡であることについて、何かと非難を浴びます。こんな生活を送っていたのでは身が持たないのではないか、と私は思いましたが、一郎の両親の直に対する態度が明言されておらず、漱石自身も直の不幸についてはさほど重きを置いていないようでしたが、明治時代の女性がひたすら忍耐を求められていたことが本書を読むとわかります。かといって、では男性が幸せだったかというと、そうとも言い切れないところにこの世の中の複雑さがあると思います。
そして本書でもっとも迫力があったのが、ラストのHさんからの手紙でした。この中でHさんは一郎の常人には理解しがたい奇怪な言動を克明に記していました。その中では一郎は一緒に旅をしている親友のHさんを意味もなく突然殴ったりするわけですが、私が一番面白いと思ったのは、一郎の強迫観念のくだりでした。彼は自分の行動が目的にも方便にもならないことに不安を募らせます。したがってじっとしていられず、寝ていられないから起きて、ただ起きていられないから歩いて、ただ歩いていられないから走って、どこまで行っても止まれなくなります。そして止まれないだけなく、走る速度を無限にあげていかなければならなりません。私たちも不安になるとじっとしていられなくなりますが、不安には必ずその原因があり、その原因を取り除くことで私たちは再び精神の安らぎを得ることができます。しかし一郎の場合はその不安の原因が自己の想念に起因しているというところに、救い難さがあります。彼は自分の頭の中で不安の原因をつくっておびえているのだから、原因を取り除くことができません。
私たちが不安を取り除くとき、やはり頼りにするのは家族や友人など周囲の人たちです。しかし一郎は家族と齟齬を来たしているので頼ることができません。家族との楽しい団欒の中で嫌なことを忘れるという経験を持ちえず、書斎に閉じこもったまま不安を増幅させます。
手紙の中でHさんは一郎に、幸福をつかむために周囲の人たちに自分が合わせるようにしたらどうか、といったニュアンスのことを言います。しかし一郎はそれを拒否し、周囲の人間の方が自分の持つ精神の高みに登ってくるべきだ、と我を捨てることができません。幸福にはなりたいが、我は捨てられないという矛盾に自分でも気が付いているので、なおさら不幸です。本書読んだからといって、私に一郎の矛盾を解決する手段など考えられるわけがありませんが、他者との関連の中で生きていく我々人間の存在の難しさをあらためて認識させられました。
私が思うに、一郎のような学者の中には研究室や書斎で一日のほとんどの時間を過ごすため、社会性を失い、他者と上手にコミュニケーションをとれなくなる者がいるのでしょう。本書の中で漱石も「学者たちが書斎に立てこもるのは、必ずしも家庭や社会に対する謀反とも限らなかった」と半ば自虐的な記述を残しています。
一部の学者が社会との関係を断った結果、人とのつながりを失うのはやむを得ないのかもしれません。しかし今の日本を顧みた時、テレビゲームやインターネットにのめり込んで社会性を失ってしまう人があまりに多いことを私たちは自覚しています。そしてその結果、一郎のように心を病む人が増えています。私には『行人』が現代に生きる我々の生活様式に警鐘を鳴らしているのではないか、と思えてなりませんでした。
(原稿用紙5枚、99行、1894字)
ただ私の希望として、最低でも文科系志望の中高生には漱石は読んでほしいです。漱石の文章というのは、あまりに美しく味があり、とても私のような凡人には真似できるようなものではありません。内容が難しいと感じた場合でも、必死でかじりついて美しい日本語というものを学んでほしいと思います。音読がいいかもしれません。
それでは『行人』という作品について、読書感想文例では書ききれなかったことを補足してみたいと思います。
まず漱石の作品のほとんどが東京を舞台にしているのに対して、本作では前半大阪と和歌山を舞台に物語が進行します。したがってこの部分は他の漱石の作品を読んでいると、とても新鮮な感じがします。もっとも全部読んでしまうと、冒頭の語り手である二郎と三沢のやりとりは、なにか意味があったのかな、と思いますが。
しかし主人公である一郎が登場すると、話が俄然おもしろくなってきます。一郎の偏執狂的な人格が本書のメインテーマですが、登場したての頃は、わりとまともです。ところが妻の直の不貞を疑い、二郎に直と一夜を過ごすよう依頼して、この二人を試そうとするあたりから一郎の異常さが徐々に頭をもたげてきます。東京に帰ると一郎の奇怪な行動はますます目につくようになり、妹のお重を使ってテレパシーの実験をするなど、ついに家で家族みんなが彼を持て余し対処できなくなったため、二郎が一郎の親友のHさんに依頼をして、一郎を療養がてら旅行に連れて行ってもらいます。二郎はHさんに、一郎におかしなところがあれば手紙を書いてほしいと無理強いするわけですが、案の定Hさんから一郎の奇怪な言動について認められた手紙が届きます。
読書感想文例でも少し取り上げましたが、Hさんの手紙のなかの一郎の強迫観念についての記述は、私とってとても感慨深いものがあります。
今、多くの日本人が心を病んでおり、心療内科の待合室に患者が途切れることがありません。もはや『行人』の一郎は、小説の中の架空の人格だと片付けられない時代になっています。これから人と人との触れ合い、絆がどうなっていくのか、と考えた時、先行き不透明な未来が不安になります。