今回読んだ『大恐慌のアメリカ』(林敏彦著、岩波新書)は1988年出版で、私が高校生のとき買った本です。今更ながら本書を手に取ったのは、読んでいない本を本棚に置いておくのは気持ちが悪いのと、世界大恐慌についてきちんと理解をしておきたかったからです。1988年といえばバブル景気の真っ最中で、この時期に大恐慌を振り返って日本経済に警鐘を鳴らしたというのは、筆者の炯眼だと思います。
世界大恐慌時のアメリカを考えるには、本書のように次の三段階に分ける必要があります。
@ 1920年代の繁栄
A 大恐慌
B ニューディール
@ 1920年代の繁栄
ウィルソン(民主党)は自身が提唱した国際連盟への参加を議会に否決され、1920年の大統領選では共和党のハーディングが勝利します。ハーディングについては特筆すべき業績はなく、執務中にブリッジに打ち込むなどだらしのない人間だったようです。
1923年ハーディングが任期中に急死し、副大統領のクーリッジが大統領に就任します。次の大統領のフーヴァーが大恐慌の象徴のような存在であるとすれば、クーリッジは20年代の繁栄の象徴だといえるでしょう。クーリッジはそれまで宗教界、政界から軽蔑されていたビジネスをアメリカ人の本業だと宣言し、実業界から絶大な支持を得ます。そして企業活動に口出しをしない「小さな政府」を志向します(元々共和党は小さな政府を志向する傾向にある)。自由放任主義の具現者であったクーリッジは、個人的にも何もしない政府を身をもって実行します。食後には必ず居眠りをし、夏の休暇にはキャンプにこもって釣り三昧にふけるなど、分刻みのスケジュールで動く今の大統領では考えられない生活を送ったようです。
しかしクーリッジは自由放任主義を徹底した結果、膨らむだけ膨らんだ危険な風船を、フーヴァーに手渡してしまうことになります。
【1920年代の世相】
1920年代のアメリカ社会の大きな特徴の一つとして禁酒法(1920〜33)があげられます。この法律の結果、逆にアメリカ社会は退廃し、アル・カポネのようなギャングが暗躍する余地を与えてしまいます。法律は有名無実と化し、先日ご紹介した小説「グレート・ギャツビー」の中でも、登場人物たちは当たり前のように酒を飲んでいます。
また知識人にとって、20年代は混乱と苦悩に満ちた時代でした。多くの若い作家、詩人、評論家たちは、第一次世界大戦の終了とともに理想を見失い、アメリカ文化の浅薄さに絶望してヨーロッパを放浪しました。そして帰国すると母国は金銭狂の国になっており、彼らにとってそれはいかがわしくけがらわしいものでした。
一般のアメリカ人も、経済的繁栄にもかかわらず、何か物足りないものを感じていました。そして自分たちが探し求めているものを、チャールズ・リンドバーグという若者の中に見出したのです。
リンドバーグの快挙に全米が熱狂しましたが、その熱狂ぶりは常軌を逸していました。米国民はリンドバーグが自分たちが見失ったアメリカン・ドリームの具現者として、彼に自分たちの姿を投影したのでしょう。リンドバーグの意義について、フィッツジェラルドは次のように述べています。
そうか。空を飛べば抜け出せたのか。われわれの定まることを知らない血は、果てしない大空にならフロンティアを見つけられたかもしれなかったのだ。しかし、われわれはみんなもうほとんど引き返せなくなっていた
【ハーバート・フーヴァー】
フーヴァーは幼くして孤児となり、貧しい少年時代を送りました。しかしアルバイトをしながら大学に通って鉱山技師となり、大成功をおさめて億万長者となります。そしてハーディング政権で商務長官となり、1928年の大統領選に勝利した彼は、アメリカン・ドリームそのものでした。また敬虔なクエーカー教徒で、高潔な人格をもち、ひたすら職務に打ち込みます。そんな彼が大統領在任中に大恐慌が襲ってきたわけですから、運命はあまりに残酷です。
A 大恐慌
恐慌の兆候は大雑把に言えば以下の3つの分野に現れます。
まず農業です。第一次大戦中、ヨーロッパの食糧需要にこたえるため、農家は大規模な設備投資を行います。しかし大戦後、ヨーロッパからの需要が激減すると農産物価格は下落し、農家には大量の過剰生産能力と負債の山が残ってしまいました。
次は住宅建設です。大戦後、住宅建設は爆発的に拡大しました。しかし1925年をピークに需要は減少し、29年にはピーク時の半分に落ち込みます。原因は人口増加が止まったことでした。
そして最後は自動車をはじめとする耐久消費財です。これについては後で詳述します。
1929年10月24日株価の大暴落が起こるわけですが、それ以前からフーヴァーは企業の商品在庫が増えて、失業者が増大しているという報告を受けていました。フーヴァーは総需要の減少を食い止めるため、公共事業を増やし、産業界の指導者に支出(投資)を増やすよう要請します。しかし主な公共投資は州レベルで行うことであると彼は考えていたため、連邦政府としての支出はできるだけ抑えようとしました。彼には連邦政府は均衡財政(税収と国家支出が均等になること)を保つべきだという信念があったのです。その結果、不況の余波はますます拡大することになります。
さらに1930年6月アメリカ議会はスムート・ホーリー法という法案を可決します。この法律の結果、アメリカへの輸入関税は過去最高の水準となり、アメリカ経済に依存していたヨーロッパ諸国は復興への足がかりを完全に失いました。史上最悪の立法と呼ばれるこの法律が原因で、恐慌が世界規模に拡大したといっても過言ではありません。
恐慌がすすむと、米国内では飢餓と余剰の併存という信じられない光景がそこかしこに展開しました。多くの国民が飢餓で苦しんでいる一方で、農家では作物を畑で腐らせたり、石油をかけて燃やしたりしていました。農産物の価格が下がりすぎて売り物にならないからです。ちなみにケインズは1936年その著書の中で「膝まで小麦に埋まってパンに行列する」姿が、貨幣経済が機能を停止した時に現れる典型的な症状であることを明らかにしました。
B ニューディール
1932年の大統領選でフーヴァーに圧勝した民主党のフランクリン・ルーズヴェルトは、ニューディール政策と呼ばれる一連の総需要改革を行い、米経済の立て直しをはかります。ニューディール政策の中では以下の3つが有名です。
T. 全国産業復興法
大不況にいたる状況の中から、多くの経済学者・実業家・政治家などは企業間の過当競争が企業活動のリスクを高め、大量失業につながったという認識をもつようになります。したがってこの法律で生産の制限や価格の調整をはかって企業の過当競争を抑えようとしました。また労働者の団体契約権・最低賃金制・最高労働時間を取り決め、労働者を保護し、彼らの購買力を高め、需要を促進しようとしました。
U. 農業調整法(AAA)
農作物の供給を制限し、農産物市場に政府が介入して農産物価格を引き上げ、それによって農村部の困窮を救おうとするものです。農作物を強制的に廃棄したり、何百万頭もの豚を屠殺し、小さなものは肥料にするなど、結構無茶をやったようです。
V. テネシー峡谷開発公社(TVA)
全長1000キロメートルを超えるテネシー川流域の総合開発計画を担当する特殊法人。ニューディールといえばTVAで、中学の歴史でもでてくるほどです。
ニューディールはボルシェヴィズムすれすれの経済改革であり、アメリカ経済のそれ以上の悪化を食い止める役割は果たしたかもしれませんが、総需要政策としては役に立たなかったというのが、今日の経済学者の定説だそうです。
そしてニューディールをかかげても基本的には均衡予算主義者だったルーズヴェルトが大量国債発行による果敢な積極財政を実行したのは、皮肉にも真珠湾攻撃ではじまる第二次世界大戦がはじまってからでした。アメリカが不況を脱したのは1941年のことです。
C 大恐慌はなぜ起こったのか
恐慌の原因を知りたかったことが、私が本書を読んだ一番の理由であり、その分析は最終章で論ぜられています。私は経済に関しては門外漢のため、筆者の分析にはやや難解な部分もありました。
大恐慌が起こったのは、簡単にいえば耐久消費財の需要が減って、供給過剰になったことが原因です。一般国民の購買力が貧弱であったために、需要が先細りになりました。
需要が激減した原因について、アメリカの経済学者ガルブレイスが指摘するには、好況期に国民所得の分配が著しく不平等であったということです。企業はあげた収益を労働者の賃金上昇に還元するのではなく、企業が利潤として吸いあげていました。結果、消費の中心となるべき中産階級の成長が阻害されたのです。
また中枢産業のほとんどで過剰設備が生じたこと、その設備を維持しようとして、大企業が独占力によって、価格を高い水準のまま据え置いたことも需要が減少した要因です。大企業のカルテルなど横暴が横行したのは、やはり会社として組織がまだ不健全であったこと、公的な監視機能が十分に働いていなかったことが挙げられます。
また株価暴落後の連邦準備制度理事会(FRB)の対応の不備も、不況拡大の大きな原因と考えられています。株価暴落後、数回FRBが買いオペレーション(公開市場操作)をするタイミングがあったのですが、すべて傍観していたとマネタリスト(通貨供給重視論者)は批判しています。FRBが全く機能しなかったのは、強力なリーダーシップと見識を持った人物がいなかったからだといわれています。