【あらすじ】
上 「先生と私」
私は鎌倉の海水浴場で先生と初めて出会う。先生と懇意になった私は東京に帰っても先生宅を訪問するが、はじめて訪問した日、先生は雑司ヶ谷の墓地に出かけており、墓地まで先生を追いかけてきた私を見て、先生は不自然なまでに狼狽する。私はその後も何度か先生宅に足を運ぶうちにより懇意の度を増していく。二人で上野に出かけたとき、先生は「恋は罪悪ですよ。わかっていますか」と私に問いかけ、その理由を答えないため私を困惑させる。
私は冬に一度病気の父親を見舞うため田舎に帰り、帰京して大学の卒業論文に相対して四苦八苦する。先生の専門は私の論文のテーマと近いのだが、先生は本は貸してくれるが力は一向に貸してくれなかった。
私の論文完成後、二人は郊外に散歩に出かけ、そのとき私は先生から、遺産を早めにきちんと整理をしておけというアドバイスを受ける。先生はかつて親族にだまされた経験があるので財産の管理はきちんとしておけ、と言ったのだが、私は先生の過去に何かを感じ、先生の過去をおしえてくれ、と要求する。先生は時期が来たら話す、とその場では何も語らなかった。
私は六月に大学を卒業し、田舎に帰郷する。
中 「両親と私」
私が帰郷すると、病気の父親は意外に元気だった。しかし父親は次第に衰弱していく。九月に私が帰京しようとする間際に父親が倒れ、帰京は延期になった。私は兄と妹にも電報を打つ。父親の容体がますます悪化する中で、私は先生からかなり長い手紙を受け取る。手紙の中に先生の自殺の意志を見た私は、非情にも、明日をも知れぬ父親を残して、汽車に飛び乗り東京に向った。下 「先生と遺書」
※この編は私が先生から受け取った手紙の中味。「上」で先生が私に聞かせると約束した自分の過去をつづっている。先生は高等学校に入る前に相次いで両親を亡くし、財産の管理を叔父に任せていた。ところが大学生になって、信頼していたはずの叔父が財産をごまかしていたことを知り、先生は世の中の人間というものが信じられなくなる。残った財産をすべて金にかえて、先生は戦争未亡人の家で下宿をはじめる。猜疑心の塊だった先生は、この下宿での新しい生活の中で奥さんと御嬢さんに触れ合い、彼の尖った神経は次第に穏やかになっていく。そして先生は御嬢さんに恋心を募らせていく。
先生にはKという友人がいたが、Kは養家の医者になれという意志に反した学問を専攻したため、絶縁される。彼の生活の窮状を見かねた先生はKを自分の下宿に招くが、日常の些細な出来事でKと御嬢さんの仲を疑い始め、ほとんどパラノイアとなってしまう。邪推にまみれ妄想にふける先生に、Kは御嬢さんへの恋心を打ち明ける。
あわてた先生は一計を案じ、Kに先んじて奥さんに御嬢さんとの結婚を申し込み、奥さんから承諾を与えられる。それから数日後、Kは先生と御嬢さんとの結婚を知り、夜中頸動脈をナイフで切って自殺した。
Kの自殺で自責の念にかられた先生は、その後の人生を死んだ気で生きていこうと決心する。そして明治天皇の崩御とそれに続く乃木大将の殉死を知って、自分は明治の精神に殉死することにする。
【読書感想文例】
『こころ』は、恋愛成就のために親友を死なせ、それが元で自分の人生も破滅させてしまう男の物語です。
この物語で特に私が注目したのは、『先生と遺書』の中での先生の周囲の人たちへの働きかけです。先生は高等学校に在籍しているとき、親から相続すべき遺産を叔父にごまかされ、人間不信に陥ります。小さい頃から鷹揚に育てられた先生は、叔父に裏切られたのがよほどショックだったのか、神経が鋭く尖ってしまい、汽車に乗ってさえ周りの乗客を警戒してしまうほど厭世的になってしまいます。しかし下宿を変わって、奥さんとお嬢さんの二人と一緒に生活をはじめたとき、先生は奥さんの影響で快活さを取り戻し、お嬢さんに恋をします。
恋をすれば人間も変わるだろう、と私は思いますが、奥さん、お嬢さんと生活をはじめた当初でさえ、先生はこの二人にあらぬ邪推を働かせていました。叔父にだまされたとはいえ利子の半分も使えないほどの財産をもった自分に、奥さんは財産目的でお嬢さんを自分に近づけているのではなかろうか、と先生は根拠のない妄想を働かせます。この猜疑心は下宿を変わって間もない頃で、これに関する記述はここで終わっていますが、後に親友の自殺という悲劇を招く邪推の萌芽がすでにここにあらわれていると私は思います。
先生が豊富な財力を元に恵まれた下宿生活を送るのとは対照的に、彼の親友のKの生活は困窮を極めたため、Kを自分の下宿に招きます。Kは医者になれ、という養家の希望を無視し別の分野の学問に進んだため、養家、生家両方から絶縁され、この世に寄る辺を失っていました。そのため財力のある先生が助け舟を出したわけですが、このことが悲劇を呼びこんでしまいます。
元来無口で無愛想なKが徐々にお嬢さんと打ち解けていくにつれ、彼女に恋をする先生は内心おだやかでなくなり、同じ家で暮らす他の三人に猜疑心のアンテナを張り巡らします。邪推を重ねる先生はもはやパラノイアであり、常人では考えられない妄想と頭の中で格闘します。私は「なぜ一言自分の思い、考えを家人に伝えないのか?」と不思議で仕方がありませんでした。せめてKとだけでも腹をわって話をしていれば、後に起こる悲劇を食い止められたに違いないのです。物語の最後に明治の精神に殉死することを手紙の受取人が理解できない理由を「時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません」と述べているとおり、異なる時代の人の心理を現代に生きる私たちの基準で考えてはいけないのかもしれません。しかし私は漱石の生き写しのようなキャラクターである先生個人の特殊な問題であると考えています。男女両想いでこそ結婚すべきだという理想論を、お嬢さんに結婚の申し込みができないことの屁理屈に使ったり、Kの恋の告白を聞いても自分は何も言えなかったりする部分から、先生は極度に内省的で、物事の実行力に欠けているのではないかという印象を私は持ちました。
そしてKが自殺をした後、しばらく先生はKの死因を繰り返し考え、その結果Kが「たった一人で寂しくってしかたがなかったのではないか」ということに思い至ります。このKの心境には読むものの心を強く揺さぶるだけの力があると思いました。家族からは離縁され、この世でたった一人頼りにしていた親友に裏切られたKの寂しさは幾ばくのものだったでしょうか。無限に広がる荒涼たる砂漠の真ん中でポツンと一人取り残されたような不安と孤独を感じたのだと思います。この寂しくって仕方がなかったKに対する共感が、本作品が時代を超えて愛される一つの要因であると考えられます。
そして一方で先生も自分で予測した如く、Kと同じ寂しさを抱えて生きていかなくてはならなくなります。先生はお嬢さんを妻にしますが、妻の温かみより、Kに対する仕打ちの悔恨の方がそれから後の人生でより重きをなしてしまいます。私たちはよく「取り返しのつかないことをした」と気軽に言いますが、先生は人間として本当に取り返しのつかないことをしてしまったのですから。
恋と友情。本来この二つが同じ天秤にかけられるはずがないと私は思っていましたが、自分の周囲を顧みると、恋人を追いかけて行方不明になり、二度と連絡の取れなくなった友達がいることも事実です。物語の前半、先生が「恋は罪悪ですよ。わかっていますか」と問いかけます。恋は華やかで甘美なイメージがありますが、その裏にある暗く危険な側面もこの小説で垣間見たような気がします。
この物語で特に私が注目したのは、『先生と遺書』の中での先生の周囲の人たちへの働きかけです。先生は高等学校に在籍しているとき、親から相続すべき遺産を叔父にごまかされ、人間不信に陥ります。小さい頃から鷹揚に育てられた先生は、叔父に裏切られたのがよほどショックだったのか、神経が鋭く尖ってしまい、汽車に乗ってさえ周りの乗客を警戒してしまうほど厭世的になってしまいます。しかし下宿を変わって、奥さんとお嬢さんの二人と一緒に生活をはじめたとき、先生は奥さんの影響で快活さを取り戻し、お嬢さんに恋をします。
恋をすれば人間も変わるだろう、と私は思いますが、奥さん、お嬢さんと生活をはじめた当初でさえ、先生はこの二人にあらぬ邪推を働かせていました。叔父にだまされたとはいえ利子の半分も使えないほどの財産をもった自分に、奥さんは財産目的でお嬢さんを自分に近づけているのではなかろうか、と先生は根拠のない妄想を働かせます。この猜疑心は下宿を変わって間もない頃で、これに関する記述はここで終わっていますが、後に親友の自殺という悲劇を招く邪推の萌芽がすでにここにあらわれていると私は思います。
先生が豊富な財力を元に恵まれた下宿生活を送るのとは対照的に、彼の親友のKの生活は困窮を極めたため、Kを自分の下宿に招きます。Kは医者になれ、という養家の希望を無視し別の分野の学問に進んだため、養家、生家両方から絶縁され、この世に寄る辺を失っていました。そのため財力のある先生が助け舟を出したわけですが、このことが悲劇を呼びこんでしまいます。
元来無口で無愛想なKが徐々にお嬢さんと打ち解けていくにつれ、彼女に恋をする先生は内心おだやかでなくなり、同じ家で暮らす他の三人に猜疑心のアンテナを張り巡らします。邪推を重ねる先生はもはやパラノイアであり、常人では考えられない妄想と頭の中で格闘します。私は「なぜ一言自分の思い、考えを家人に伝えないのか?」と不思議で仕方がありませんでした。せめてKとだけでも腹をわって話をしていれば、後に起こる悲劇を食い止められたに違いないのです。物語の最後に明治の精神に殉死することを手紙の受取人が理解できない理由を「時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません」と述べているとおり、異なる時代の人の心理を現代に生きる私たちの基準で考えてはいけないのかもしれません。しかし私は漱石の生き写しのようなキャラクターである先生個人の特殊な問題であると考えています。男女両想いでこそ結婚すべきだという理想論を、お嬢さんに結婚の申し込みができないことの屁理屈に使ったり、Kの恋の告白を聞いても自分は何も言えなかったりする部分から、先生は極度に内省的で、物事の実行力に欠けているのではないかという印象を私は持ちました。
そしてKが自殺をした後、しばらく先生はKの死因を繰り返し考え、その結果Kが「たった一人で寂しくってしかたがなかったのではないか」ということに思い至ります。このKの心境には読むものの心を強く揺さぶるだけの力があると思いました。家族からは離縁され、この世でたった一人頼りにしていた親友に裏切られたKの寂しさは幾ばくのものだったでしょうか。無限に広がる荒涼たる砂漠の真ん中でポツンと一人取り残されたような不安と孤独を感じたのだと思います。この寂しくって仕方がなかったKに対する共感が、本作品が時代を超えて愛される一つの要因であると考えられます。
そして一方で先生も自分で予測した如く、Kと同じ寂しさを抱えて生きていかなくてはならなくなります。先生はお嬢さんを妻にしますが、妻の温かみより、Kに対する仕打ちの悔恨の方がそれから後の人生でより重きをなしてしまいます。私たちはよく「取り返しのつかないことをした」と気軽に言いますが、先生は人間として本当に取り返しのつかないことをしてしまったのですから。
恋と友情。本来この二つが同じ天秤にかけられるはずがないと私は思っていましたが、自分の周囲を顧みると、恋人を追いかけて行方不明になり、二度と連絡の取れなくなった友達がいることも事実です。物語の前半、先生が「恋は罪悪ですよ。わかっていますか」と問いかけます。恋は華やかで甘美なイメージがありますが、その裏にある暗く危険な側面もこの小説で垣間見たような気がします。
(原稿用紙換算5枚、1831字、94行)
【その他所感】
今回読み始めたときは、作品のあらばかりが目につき、内容がなかなか頭に入ってきませんでした。要するに集中できず、物語に没頭できていない証拠です。「先生と遺書」からはいろいろ考えながらですが、集中できたと思います。まだ本作の読後の舌触りが、余韻のように脳髄に残っています。ところで『こころ』のメインテーマの一つは「恋」ですが、これは明治と現代では価値観が違うので、登場人物に感情移入しようとしても、なかなか難しい部分があります。
先生が御嬢さんとの結婚を申し込むとき、まず親の奥さんに談判をします。明治憲法では結婚には親の承諾が必要であったため手順としては間違っていませんが、本人同士、殊に女性の側の意志は無視されています。奥さんは御嬢さんの意志を尊重して先生の求婚の申し出を承諾したわけですが、実際にこんな例は少なかったのではないのかな、と思われてしまいます。本人の意志を無視した結婚が横行していれば、「恋は罪悪ですよ」と先生が言った言葉が空々しくなります。敗戦後民主化するまで、多くの日本人にとって恋愛はあくまで空想の世界であり、現実は恋愛をしたなら選ばないはずの相手を配偶者として迎えなければならなかったのではないかと推察できます。
したがって「恋は罪悪ですよ」という言葉を当時の日本人がどう受け取ったのか、漱石はどういう意味でこの言葉を使ったのか、大変興味があります。「恋」が空想上のものならば罪悪もクソもないわけですから。
とにかく恋愛が命だと思っている私は、この時代ではあまりに窮屈すぎて、とても生きていられなかったでしょう。
それから、何回読んでもやはり本作で目につくのは、先生の妄想癖ですね。これは行人の一郎にもあてはまるのですが、漱石文学の大きな特徴であり、好きな人には魅力でもあります。私が先生を一言で言い表せば「頭はいいが、行動力ゼロの人」となります。
一言Kと話をすれば解決のつくことを、邪推を重ねて腹の中にため込んでしまいます。それは自尊心からくるのでしょう。また帝国大学の学生であるという矜持もあるでしょう。しかしそれらがために言いたいことを言えないのだとしたら、学問とは一体何なんだろう?と疑問に思ってしまいます。学問で口がふさがって不自由するのなら、バカでいいから幸せに生きたいと私は思います。
一言Kと話をすれば解決のつくことを、邪推を重ねて腹の中にため込んでしまいます。それは自尊心からくるのでしょう。また帝国大学の学生であるという矜持もあるでしょう。しかしそれらがために言いたいことを言えないのだとしたら、学問とは一体何なんだろう?と疑問に思ってしまいます。学問で口がふさがって不自由するのなら、バカでいいから幸せに生きたいと私は思います。